夏目漱石「それから」本文と評論10-3「三千代は、此方(こちら)を向いてためらつて居た」
◇評論
「斯んな風に」以降の部分は、以前描かれた部分の繰り返しになっており、漱石にしてはやや特殊な・あまりない形になっている。大事な場面であり、丁寧に描きたいのだろう。
「空虚なるわが心の一角(いつかく)」や「溌溂たる宇宙の刺激」は、三千代への恋情や父からの結婚の圧迫を表す。その解消のため代助は、「午寐(ひるね)を貪(むさ)ぼつた」。「穏(おだや)かな眠りのうちに、誰かすうと来て、又すうと出て行つた様な心持がし」、「眼を醒(さ)まして起き上がつても其感じがまだ残つてゐて、頭から拭ひ去る事が出来なかつた」ので、「門野を呼んで、寐てゐる間に誰か来はしないかと聞いたのである」。睡眠の中にあってもやはり三千代の来訪が気がかりな代助。
「高い空を」「眼ま苦しく」「切つて廻(まは)る燕の運動」は、やがて代助がその人となることの伏線。「三千代が又訪ねて来ると云ふ目前の予期」は、「気分の平調を冒(おか)し」、「思索も読書も殆んど手に着(つ)かなかつた」。漱石の作品にはよく、気がかりなことや困惑する出来事について、書籍を開いてはいるがそれを読む気には全くならない様子が描かれる。「三四郎」の「おさらい」もそうだ。「本棚の中から、大きな画帖を出して来て、膝の上に広げて、繰(く)り始め」ても同じこと。「只(たゞ)指の先で順々に開けて行く丈であつた」。
イギリスの画家ブランギンの絵は、「何処(どこ)かの港の図であつた。背景に船と檣(ほばしら)と帆を大きく描(か)いて、其余つた所に、際立つて花やかな空の雲と、蒼黒(あをぐろ)い水の色をあらはした前に、裸体の労働者が四五人ゐた。代助は是等の男性の、山の如くに怒らした筋肉の張り具合や、彼等の肩から脊(せ)へかけて、肉塊と肉塊が落ち合つて、其間に渦の様な谷を作つてゐる模様を見て、其所(そこ)にしばらく肉の力の快感を認めた」。これは代助もやがてそのような場で働くことを暗示している。
三千代の来訪を心待ちにする「鋭どい代助の聴神経には」、「勝手の方」の「婆さんの声」や、「牛乳配達が空壜(あきびん)を鳴らして急ぎ足に出て行」く音が「善く応(こた)へた」。ここでも代助の感覚の鋭敏さが説明される。
「ぼんやり壁を見詰めて」放心状態の代助。「門野をもう一返呼んで、三千代が又くる時間を、云ひ置いて行つたか何(ど)うか尋ねやう」という「愚」なことを思つたり、「人の細君が訪ねて来るのを、それ程待ち受ける趣意がないと考へ」たりする。これは、不倫に対する多少のうしろめたさのあらわれか。しかし彼は次の瞬間には、「それ程待ち受ける位なら、此方(こちら)から何時(いつ)でも行つて話をすべきであると考へた」。人の細君を待つことははばかられる一方で、それほど会いたいならば、人の目など気にせずにこちらから積極的に会いに行くべきだという「此矛盾の両面を双対(そうたい)に見た時、代助は急に自己の没論理に恥ぢざるを得なかつた」。三千代への愛が、論理的で冷静な思考を阻んでいる。代助は、「今の自分に取つては、この没論理の状態が、唯一の事実であるから仕方ないと思つた」。矛盾こそが真実だと肯定する気持ち。人妻である三千代を愛することは、道義に反することであることを認めつつも、その一方で自分の三千代への愛は誠であるとの自覚。この真実の愛を否定することは、自分という存在を「蔑視する」、「形式」的な「論理」「に過ぎないと思つた」。そこまで今の自分の感情・思考を整理できたので、代助は少し安心して「又椅子へ腰を卸した」のだ。
「人妻」への恋を世間は許さないだろう。ましてや平岡はそうだ。それは認める一方で、三千代への自分の愛は真実のものだということを、ここで改めて自覚する代助。従ってこの部分の気持ちの整理・確認は、代助にとって重要な意味を持つ。三千代への愛を貫く決心まではいかないが、三千代への愛を誇る気持ちを、代助は確認したからだ。
ここはさらっと説明されているが、意外に大切な部分だといえる。
従ってこの後の代助は、愛の確信を持って三千代と相対することになる。
「それから三千代の来る迄、代助はどんな風に時を過ごしたか、殆んど知らなかつた」。恋しい人を待つ忘我の境地。
「表(おもて)に女の声がした時、彼は胸に一鼓動(いつこどう)を感じた」。いよいよ愛する人との対面がかなうという胸のドキドキ。代助にしては初々しい反応だ。従ってこれに続く説明は、ややその気恥ずかしさを隠すような表現になっている。自分の気持ちを取り繕うために論理に頼りすぎで、言い訳がましく聞こえる。
「彼は論理に於て尤も強い代りに、心臓の作用に於て尤も弱い男であつた。彼が近来怒れなくなつたのは、全く頭の御蔭で、腹を立てる程自分を馬鹿にすることを、理智が許さなくなつたからである。が其他の点に於ては、尋常以上に情緒の支配を受けるべく余儀なくされてゐた」。
通常は「論理」的・「理智」的。しかし「情緒」・感情によって心臓が支配される時には、論理が負ける。ただし、怒りについては例外。三千代が来ただけで胸がドキドキすることを、このようにまわりくどく説明する必要があるだろうか。「理智」の人である代助が、こと三千代に限っては感情で動いてしまう様子の説明ではあるが。
「取次ぎに出た門野が足音を立てゝ、書斎の入口にあらはれた時、血色のいゝ代助の頬は微かに光沢(つや)を失つてゐた」。
好きな人の登場に、顔から血色と光沢が引いてしまうことは、彼の緊張を表しているだろう。また代助の表情はこわばりぎこちない。(よっぽど好きなんだね。中学生かな)
「代助はうんと云つて、入口に返事を待つてゐた門野を追ひ払ふ様に、自分で立つて行つて、椽側へ首を出した」。
門野の案内を待っていられないのだ。
「三千代は椽側と玄関の継目の所に、此方(こちら)を向いてためらつて居た」。三千代のたたずまいは、うつむいていたり、「ためらって」いたりする。控え目で静かな女性。その彼女が時に意外な行動に出たり決意したりするので、代助も読者も驚かされる。
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