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夏目漱石「それから」本文と評論10-2

◇本文
 一時間の後、代助は大きな黒い眼を開(あ)いた。其眼は、しばらくの間一つ所に留(とゞ)まつて全く動かなかつた。手も足も寐てゐた時の姿勢を少しも崩さずに、丸で死人のそれの様であつた。其時一匹の黒い蟻(あり)が、ネルの襟(えり)を伝はつて、代助の咽喉(のど)に落ちた。代助はすぐ右の手を動かして咽喉を抑(おさ)へた。さうして、額(ひたひ)に皺(しわ)を寄せて、指の股に挟んだ小さな動物を、鼻の上迄持つて来て眺めた。其時蟻はもう死んでゐた。代助は人指指の先に着いた黒いものを、親指の爪で向ふへ弾(はぢ)いた。さうして起き上がつた。
 膝の周囲(まはり)に、まだ三四匹這つてゐたのを、薄い象牙の紙小刀(ペーパーナイフ)で打ち殺した。それから手を叩いて人を呼んだ。
「御目醒めですか」と云つて、門野が出て来た。
「御茶でも入れて来ませうか」と聞いた。代助は、はだかつた胸を掻き合はせながら、
「君、僕の寐てゐるうちに、誰か来やしなかつたかね」と、静かな調子で尋ねた。
「えゝ、御出ででした。平岡の奥さんが。よく御存じですな」と門野は平気に答へた。
「何故(なぜ)起こさなかつたんだ」
「余(あんま)り能(よ)く御休みでしたからな」
「だつて御客なら仕方がないぢやないか」
 代助の語勢は少し強くなつた。
「ですがな。平岡の奥さんの方で、起こさない方が好いつて、仰しやつたもんですからな」
「それで、奥さんは帰つて仕舞つたのか」
「なに帰つて仕舞つたと云ふ訳でもないんです。一寸(ちよつと)神楽坂に買物があるから、それを済まして又来るからつて、云はれるもんですからな」
「ぢや又来るんだね」
「さうです。実は御目覚になる迄待つてゐやうかつて、此座敷迄上がつて来られたんですが、先生の顔を見て、あんまり善く寐てゐるもんだから、こいつは、容易に起きさうもないと思つたんでせう」
「また出て行つたのかい」
「えゝ、まあ左(さ)うです」
 代助は笑ひながら、両手で寐起の顔を撫(な)でた。さうして風呂場へ顔を洗ひに行つた。頭を濡らして、椽側(えんがは)迄帰つて来て、庭を眺めてゐると、前よりは気分が大分 晴々(せい/\)した。曇つた空を燕(つばめ)が二羽飛んでゐる様が大いに愉快に見えた。
 代助は此前(このまへ)平岡の訪問を受けてから、心待ちに、後から三千代の来るのを待つてゐた。けれども、平岡の言葉は遂(つい)に事実として現れて来なかつた。特別の事情があつて、三千代がわざと来ないのか、又は平岡が始めから御世辞を使つたのか、疑問であるが、それがため、代助は心の何処(どこ)かに空虚を感じてゐた。然し彼は此(こ)の空虚な感じを、一つの経験として日常生活中に見出だした迄で、其原因をどうするの、斯(か)うするのと云ふ気はあまりなかつた。此経験自身の奥を覗(のぞ)き込むと、それ以上に暗い影がちらついてゐる様に思つたからである。
 それで彼は進んで平岡を訪問するのを避けてゐた。散歩のとき彼の足は多く江戸川の方角に向いた。桜の散る時分には、夕暮れの風に吹かれて、四つの橋を此方(こちら)から向ふへ渡り、向ふから又此方へ渡り返して、長い堤(どて)を縫ふ様に歩いた。が其桜はとくに散つて仕舞つて、今は緑蔭の時節になつた。代助は時々橋の真中に立つて、欄干に頬杖を突いて、茂る葉の中を、真直ぐに通(とほ)つてゐる、水の光を眺め尽して見る。それから其光の細くなつた先の方に、高く聳える目白台の森を見上げて見る。けれども橋を向ふへ渡つて、小石川の坂を上る事はやめにして帰る様になつた。ある時彼は大曲(おほまがり)の所で、電車を下りる平岡の影を半町程手前から認めた。彼は慥(たし)かに左様(さう)に違ひないと思つた。さうして、すぐ揚場(あげば)の方へ引き返した。
 彼は平岡の安否を気にかけてゐた。まだ坐食(ゐぐ)ひの不安な境遇に居るに違ひないとは思ふけれども、或は何(ど)の方面かへ、生活の行路(こうろ)を切り開く手掛りが出来たかも知れないとも想像して見た。けれども、それを確かめる為に、平岡の後を追ふ気にはなれなかつた。彼は平岡に面するときの、原因不明な一種の不快を予想する様になつた。と云つて、たゞ三千代の為にのみ、平岡の位地を心配する程、平岡を悪(にく)んでもゐなかつた。平岡の為にも、矢張り平岡の成功を祈る心はあつたのである。

(青空文庫より)

◇評論
 前回、三千代が鈴蘭の漬けてある水を飲んでしまうことは、彼女の死と再生の暗喩になっていると述べたが、代助の午睡も、それと同じ効果を持って居るだろう。「一時間の後、代助は大きな黒い眼を開(あ)いた。其眼は、しばらくの間一つ所に留(とゞ)まつて全く動かなかつた。手も足も寐てゐた時の姿勢を少しも崩さずに、丸で死人のそれの様であつた」はそのことを表している。この後には、代助と三千代の覚醒の物語が描かれるはずだ。

「一匹の黒い蟻(あり)」は、生き物の命など簡単に失われる様子を表している。他者に害を及ぼす存在は、容赦なくつぶされ、弾き飛ばされる。神経が鋭い代助であっても、他者を攻撃しその命を奪う可能性がある。死は、すべての生き物の宿命ではある。代助と三千代の「それから」も、読者は気になるだろう。

「代助は、はだかつた胸を掻き合はせながら、
「君、僕の寐てゐるうちに、誰か来やしなかつたかね」と、静かな調子で尋ねた。」
…「はだかつた胸」を、三千代は見たことになる。彼女はそこに官能を感じただろう。また、「僕の寐てゐるうちに、誰か来やしなかつたかね」からは、ぐっすり寝入ってはいても、誰かの気配を感じていたということ。しかもこの後に、三千代の来訪を待ち望んでいたとあるから、それは三千代ではないかという予感が代助にはあった。

三千代との再開を心待ちにする主人の気も知らず、門野は相変わらずのとぼけた様子だ。
「何故(なぜ)起こさなかつたんだ」・「だつて御客なら仕方がないぢやないか」と「少し強く」問う代助に、門野は、「余(あんま)り能(よ)く御休みでしたからな」・「平岡の奥さんの方で、起こさない方が好いつて、仰しやつたもんですからな」と、すべてを他者のせいにする。他者の様子や心情を慮って自分は考え行動していると言いたげだ。しかし残念ながらそれらはすべて、代助の意を酌(く)んでいない、的外れのものばかりだった。
門野の愚な様は、この後も続く。それに対して代助は、とうとう最後に「笑」ってしまう。

「一寸(ちよつと)神楽坂に買物があるから、それを済まして又来るからつて」
代助は、神楽坂の近所に住んでいる。
〇神楽坂について
「神楽坂の賑わい
神楽坂は徳川家康の江戸入府前から、町が形成されていたといわれる。江戸時代になると、坂沿いは武家地や寺町となり、寺の縁日から賑わいの地、さらに繁華街・花街へと発展した。「地蔵坂」には江戸期からの寄席があり、明治期には夏目漱石も通っていたという。明治期以降も多くの寄席や演芸場で賑わい、明治後期から大正期にかけては複数の映画館も開業するなど、古くから娯楽の街でもあった。」
「明治期に入ると「神楽坂」沿いは武家屋敷から町人の街へと変わり、明治10年代に緩やかな坂道に直されている。寺町の岡場所から花街も誕生、1895(明治28)年には甲武鉄道(現・JR中央線)「牛込駅」の開業もあり急速に発展、東京有数の繁華街として賑わうようになった。また、周辺は尾崎紅葉、坪内逍遥をはじめ多くの文人が居住・活躍する場ともなり、文化的にも大きく発展した。写真は明治後期~大正期、「神楽坂」下からの撮影。左手前角の建物は菓子店「壽徳庵」。」(3:神楽坂の賑わい ~ 四谷・牛込 | このまちアーカイブス | 不動産購入・不動産売却なら三井住友トラスト不動産 (smtrc.jp) より)

https://smtrc.jp/town-archives/city/yotsuya/p03.html より 

「「さうです。実は御目覚になる迄待つてゐやうかつて、此座敷迄上がつて来られたんですが、先生の顔を見て、あんまり善く寐てゐるもんだから、こいつは、容易に起きさうもないと思つたんでせう」
「また出て行つたのかい」
「えゝ、まあ左(さ)うです」」
…代助の「はだかつた胸」。気になる男の乱れた寝姿。しかも相手はぐっすりと寝入っている。その時の三千代にときめきがなかったはずはない。ましてや夫は自分を相手してくれず、その関係は冷え切っている。彼女の心臓は高鳴ったはずだ。
ここでの主導権は、目覚めている三千代にあった。ふたりに過ちが生じてもおかしくない場面だ。しかしそうはならなかった。まだ代助の心を確かめてはいない。彼女自身の心も確定してはいない。三千代には自制心が働いたのだろう。
これがもし逆だったらどうなっただろう。寝入る三千代の顔を覗き込む代助。非常に危険な瞬間となっただろう。
互いに魅かれあうふたりの濃厚なエロスが、巧みに隠されている設定だ。

「代助は笑ひながら、両手で寐起の顔を撫(な)でた。さうして風呂場へ顔を洗ひに行つた。頭を濡らして、椽側(えんがは)迄帰つて来て、庭を眺めてゐると、前よりは気分が大分 晴々(せい/\)した。曇つた空を燕(つばめ)が二羽飛んでゐる様が大いに愉快に見えた。」

好きな相手が来てくれた。結婚問題の圧迫を感じていた代助は、それだけで「愉快」だった。彼の心は弾む。とにかく乱れた姿を整えなければならない。愛する人の来訪は、「庭を眺めて」も「空を燕(つばめ)が二羽飛んでゐる様」を眺めても、「気分が大分 晴々(せい/\)し」、「大いに愉快」な気持ちになった。まるで恋に染まる中学生男子のようだ。「二羽」の「燕」とはもちろん未来の代助と三千代に重なる。漱石の巧みさ。

続く部分は、代助の心情が語られる。
「代助は此前(このまへ)平岡の訪問を受けてから、心待ちに、後から三千代の来るのを待つてゐた」。けれども、三千代は現れない。「特別の事情があつて、三千代がわざと来ないのか、又は平岡が始めから御世辞を使つたのか」は分からないが、「代助は心の何処(どこ)かに空虚を感じてゐた」。来訪を待つ相手がなかなか姿を現さない心の「空虚」感。
「然し彼は此(こ)の空虚な感じを、一つの経験として日常生活中に見出だした迄で、其原因をどうするの、斯(か)うするのと云ふ気はあまりなかつた」とは、確かに「空虚」は感じるが、その解決・解消のために積極的に考えたり行動することはなかったということ。
それはなぜかというと、「此経験自身の奥を覗(のぞ)き込むと、それ以上に暗い影がちらついてゐる様に思つたからである」。この「暗い影」は、三千代の夫でありまた代助の友人である平岡の存在であり、それが三千代への期待や接近を阻んでいたこと。このことには、平岡夫婦の結婚に至る場面も関係している。代助は三千代を平岡にいわば斡旋(あっせん)したのだ。

「それで彼は進んで平岡を訪問するのを避けてゐた」。
愛する三千代との再会を望みながらも自分から接近することはできないもどかしさが、代助の足を働かす。「散歩のとき彼の足は多く江戸川の方角に向いた」。「四つの橋を此方(こちら)から向ふへ渡り、向ふから又此方へ渡り返して、長い堤(どて)を縫ふ様に歩いた」。「代助は時々橋の真中に立つて、欄干に頬杖を突いて、茂る葉の中を、真直ぐに通(とほ)つてゐる、水の光を眺め尽して見る。それから其光の細くなつた先の方に、高く聳える目白台の森を見上げて見る。けれども橋を向ふへ渡つて、小石川の坂を上る事はやめにして帰る様になつた」。
代助の家は神楽坂(8-2)にあり、平岡夫婦の家は小石川の伝通院の近くにある。(角川文庫P116) 
「江戸川橋の「江戸川」は、利根川水系の江戸川のことではなく、駅付近を流れる神田川中流部分(おおむね大滝橋付近から船河原橋までの約2.1 kmの区間)のかつての名称である。同時にこの沿岸付近を指す地域名でもあり、かつて江戸川橋は桜や蛍の名所として知られていた。創架年代不詳の江戸川橋は、この神田川中流区間で最初に設けられた橋梁といわれている。
河川の名称としての江戸川は1970年8月をもって神田川に変更(上流区間・下流区間の名称に統一)され、消滅した。また、文京区内でも住居表示の実施に伴って町名が変更されたため、1966年7月までに沿岸の町名から江戸川を含むものが消え、江戸川町と西江戸川町が水道一丁目・水道二丁目・後楽二丁目の各一部となった。町名変更後は当駅と橋梁の名称のほかに付近の小学校(新宿区立江戸川小学校)や公園(文京区立江戸川公園、新江戸川公園)などにその名を留めている。」(江戸川橋駅 - Wikipedia)
従って、本文にある「江戸川」とは、現在の神田川のことを指し、代助はそこに架かる「四つの橋を此方(こちら)から向ふへ渡り、向ふから又此方へ渡り返して、長い堤(どて)を縫ふ様に歩いた」ことになる。橋の向こう側には、三千代の住む小石川がある。従って代助のこの動線は、三千代へ近づきたい気持ちと、無邪気にそうすることもできない気持ちの葛藤が、そのまま表れている。最終的に代助は、「橋を向ふへ渡つて、小石川の坂を上る事はやめにして帰る様になつた」と、三千代のもとを訪れることを断念する。

代助の家と平岡の家の地理的位置

また「ある時彼は大曲(おほまがり)の所で、電車を下りる平岡の影を半町程手前から認めた。彼は慥(たし)かに左様(さう)に違ひないと思つた。さうして、すぐ揚場(あげば)の方へ引き返した」。
「大曲」は現在の東京都新宿区新小川町6にあたり、現在の信号地点名も「大曲」。首都高速5号池袋線の飯田橋料金所すぐの所。道路が東西から南北へと直角に曲がっている。ここには当時、都電江戸川線の大曲駅があった。位置的には、代助の住む神楽坂の北東部にあり、その向こう側が平岡の住む小石川となる。(都電江戸川線 路線図 - 鉄道歴史地図 (rail-history.org) 参照)
「半町」…「町」は距離の単位で、約109m。半町は50mほどとなる。代助と平岡の存在や立場の微妙な距離感が、これにあらわされている。そこまで漱石は計算している。
「揚場」とは、現在の神楽坂の東側の「揚場町」のあたりか。揚場町は飯田橋近くにある。恋する相手の夫の「影」に近づくことも声をかけることもできずただ見送り自分は「引き返」す、揺れる代助の心情が描かれる。

次には代助の平岡に対する心情が説明される。たこの部分は、語り手が代助の代わりに説明しており、代助と語り手が特に渾然一体となっている。
〇代助の平岡に対する心情
・「彼は平岡の安否を気にかけてゐた」
・「まだ坐食(ゐぐ)ひの不安な境遇に居るに違ひない」だろうが、しかし、「或は何(ど)の方面かへ、生活の行路(こうろ)を切り開く手掛りが出来たかも知れないとも想像」
・「けれども、それを確かめる為に、平岡の後を追ふ気にはなれなかつた」
・なぜなら、「平岡に面するときの、原因不明な一種の不快を予想する様になつた」からだ。
・「と云つて、たゞ三千代の為にのみ、平岡の位地を心配する程、平岡を悪(にく)んでもゐなかつた」
・それは、「平岡の為にも、矢張り平岡の成功を祈る心はあつた」からだ。

代助の心情をまとめると、
・旧友の平岡を心配する気持ちが、代助には(まだ)ある。
・しかしその現況を確認する気にもなれない。彼とのコミュニケーションには困難を感じているからだ。価値観の違いを強く感じる代助。
・またそこにはやはり愛する三千代の存在も関係しているのだが、それだからといって、平岡を強く憎む気持ちもない。
・むしろ、友人の成功を祈る気持ちも確かにあるからだ。

このように、いわば恋敵である平岡に対する揺れる気持ちが説明されている。友人を思う気持ちもまだ存在する。三千代への憐憫の情もある。以前とは変わってしまった友人と、その関係に苦悩する代助は、彼自身、学生時代とは変化している。若い頃のはつらつとした友情関係が、日本社会の「経済事情」によって大きく変化させられてしまった。京阪で平岡がしでかしたことは明らかにされないが、日本社会のほころびを伴って夫婦の間にも友人関係にも軋轢(あつれき)が生じてしまった。
その意味では、代助にはまだ、平岡との友人関係の立て直し・改善を期待する気持ちがわずかでもあるのだろう。

友情と恋愛の相克。「こころ」と同じ図式がここにもあらわれる。「こころ」の先生はエゴに従い、それによりkは死を選ぶ。お嬢さんは未婚だったが、三千代は友人の妻だ。だから三千代への代助の恋は、横恋慕ということになる。代助・三千代・平岡の三角関係の行く末にも暗雲が漂う。

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