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#8月31日の夜に(前編)世界が滅びてしまえばいいのに


世界が滅びてしまえばいいのに
いや、世界が滅びるまでもないのか
地震でもいいし火事でもいい
学校に行かなくていい理由ならとにかく何でもいいから
何か起こらないだろうか

何も起こらないならせめて
わたし1人がこの世界からいなくなるだけでいいのかもしれない


休みが終わる気配を感じると、いつもそんなふうに考えていた。
長い休みはもちろん、週末が終わるたびに。


学校では息ができない
生きている心地がしない
わたしが生きて存在していようといまいと誰も興味がないみたいだ
それならいっそ存在していない方がいいのかもしれない


何も実行したことはないけど、そんなふうに考えるぐらいしんどかった。中学生だった。

自分か自分をとりまく環境のどちらかがぶっ壊れてしまえばいい。
そしたらきっと、この悲しい気持ち、何をどうしたらいいのかわからない戸惑い、学校までの道を何度も引き返したくなる足どり、そういう重い荷物を全部なかったことにしてしまうことができるはず。

火事や地震で大変な目に遭った人たちには、今のわたしからごめんなさい。でも当時は、そんなバカなことを願ってしまうぐらいに、無力で無気力で他にどうすることも思いつかないぐらい追い詰められていました。

いじめというほどのことはなかったのかもしれない。クラスの誰とも話せないと感じていたのは、自分がひねくれていたせいかもしれないし、「みんなに嫌われている気がする」という過剰な自意識のせいだったのかもしれない。

原因や理由はどうあれ、わたしの中学校生活のある時期が、かなしみとさびしさとむなしさと不安に満ちていたのは本当のことだ。

今年は合法的に学校に行かなくてもいい期間があり、つかの間ほっとした人がいるかもしれない。登校再開のせいで、より深い絶望に突き落とされた人がいるかもしれない。短い夏休みの間に、水泳の息つぎのように必死に呼吸をして、もう苦しい、泳ぐのをやめてしまいたいと思っている人もいるかもしれない。

中学生のわたしは重い足を引きずりながら、なんとか1日1日をやり過ごした。母親が厳しくて、たった一日しか休ませてもらえなかった。何かの発表会の日、朝から泣き叫んで、どうしても行きたくないとわめきちらしたその日だけ、家にいて安心して呼吸ができたのを覚えている。

その日以降、どんなに抵抗しても学校に行かなくてはいけなかった。正確には、たいした抵抗もできなかった。母親に申し訳なくて。誰からも好かれて友達いっぱいの母親と違って、誰からも好かれていないし友達もいない自分がみじめで申し訳なくて。

だってお母さんは、わたしがすごく安心して息ができたあの日のことを、とても後悔していたから。
「一日だって休ませるんじゃなかった。ずるずると休んだらもう学校に戻れなくなって取り返しがつかないことになってたかもしれない」と言って、わたしが毎日みじめな気持ちで登校するのを見て安心していた。とても苦しかった。
お母さんは、わたしが安心して家にいるよりも、みじめな気持ちで学校に行くほうが嬉しいんだと思うことが苦しかった。娘の将来がどうなってしまうのか、母親も不安だったんだなと今はわかるのだけど。


なんとか高校生になったわたしには、すぐに1番仲良しの友達ができた。
その子と一緒の帰り道、ジェラートを食べながら、なんて幸せな高校生活だ!と嬉しくてしょうがなかった。だから、じつは中学生のときはみんなに嫌われてると思って誰とも話せなくて寂しく悲しい気持ちで過ごしていたんだよ、今じゃ信じられないよー、とわたしは軽めに話してみた。

安心できる相手だったから。
すると、いつも楽しい話をして大声で笑いっぱなしのその子は、その瞬間だけ真顔になって静かに言った。

「くやしい。
私がその時のヨーコと一緒にいてあげたかった。
そしたらヨーコを守ってあげられたのに」

その時、友達がほんとうにタイムスリップして、ひとりぼっちだった中学生のわたしのそばに行って守ってくれた気がした。だから、あの時のかなしみもさびしさもむなしさも不安も、いまはもうどこにもない。もう遠くに過ぎ去ったんだとわかった。

その言葉は何十年もたった今もわたしの宝物だ。
中学生のときに全てをあきらめていたら、絶対に得られなかった宝物だ。


人生は『諸行無常』だから大丈夫。
諸行無常の意味は、どんな状況にも必ず終わりがあって、その後には全然違う世界が始まるし、自分の意志で始められるということ。
始まったことはまたいつか終わる。自分の意志で終えることもできる。
生きてる間は永遠にその繰り返し。

でも人生そのものは例外で、自分の意志で始めることも終えることもできない。コントロールできないものだとわたしは思う。


前編の最後に。

わたしの子どもたちよ、安心しなさい。
ママは、学校に行くかどうかはきみたちが自分で決めていいと思ってる。
義務教育のあいだ、ママはきみたちを「学校に行かせる義務」があるけど、きみたちが「学校に行く義務」はない。行きたければ行ったらいい。行きたくなかったら行かなくていい、というか行ったらダメだ。ママは行きたくなかったのに行かなくてはいけなかったから知ってる。行きたくないのに無理して行くほど価値のあるものは学校にはない。その場合は価値よりもむしろ害のほうが大きい。大きく育っていくはずの大切な心はどんどん削られてゆき、誰にも見つからないように傷つかないように体だって小さく小さくちぢこまってしまう弊害。無理して学校に行ったママはたまたま今も元気でいるだけで、きみたちもそうだという保証はどこにもない。だからきみたちの輝ける今と未来のために、ママは学校に行くことを決して強制しないとここに宣言する。


後編には、自分の子どもに宣言した根拠を書きます。

あなたからわたしへのサポートは、わたしから誰かへのサポートにつなげます