詩にならねえよ(ダスト・エッセイ)

 のんの「この日々よ歌になれ」を、最近よく聴いている。バンド・忘れらんねえよの柴田隆浩が作詞・作曲したらしい。聴く前にタイトルをみて、気に入った。聴くのは、その感覚の答え合わせだった。タイトルから先に気に入るのは、珍しい。


 歌になれと思うことはある。それ以外にも、小説になれ、詩になれ、絵になれ、笑いになれ、そう思うことが、時々ある。もう、「それ」でいいはずなのに、「それ」ではないものに昇華され、消化されることを望む。どうして、「それ」じゃ、満足できないのか。


 君はまた一段と優しくなった。そう言われたことがある。履き違えた優しさを振る舞っていたように思えた時がある。遠慮でも、気にしすぎでもない、自分への優しさを求めた。嫌な時は、嫌と言うか、意識的に表情や態度に出そうと、もう少し自分中心に物事を考えてみようとし、それを克服した気になっていた時に、そう言われた。意外さと、深い納得が、同時に降りてきたような感覚だった。この二つは、併存していた。


 今、「これ」をどうにかしたい。「これ」を、「これ」ではないものに、昇華され、消化されることを望んでいる。詩にはできるかと思いつつも、詩にならない。


 頼むから、詩になれ、そう思い、叫びたくなる。叫ぶ代わりに、のんの歌に合わせて、お風呂で歌う。うんちやゲップ、あくびが、出そうで出ないのように、こんなんで効果があるのだろうかと疑いながら自分に向けて少々働きかける時間のように思える。そもそも、それを出していいのかという疑問も抱いている。


 この歌は、最後に「ハッピーエンドの主演作の最終章が幕を開ける」と歌う。「それ」が、この歌や歌の中に設けられたステージの上で昇華され、消化されていく様にみえる。括られた簡単なものでは、紹介させない。ただただ、「主演」として立っている。「それ」が、「主演」のためのものになっている。胸になれ。呼吸になれ。目線になれ。舞になれ。


(2023年5月11日投稿)

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