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癖を知ることは、その人を知ること

・冷たい飲み物を飲むときも、熱いものを飲むみたいにすすってしまう。
だって、冷たい飲み物が冷たすぎて、頭がキーーーンってなったら嫌じゃない?(知覚過敏ではない)

・誰かが話をしていて、その話が面白く笑ってしまうとき、上を向いてのけぞって手を叩いてしまう。
最初は大げさにリアクション取った方が話している方が気持ち良いかな、と思っていたけど、気が付いたら無意識でやるようになっていた。

・考えるときに、ちゃんと腕を組んでウーーーーンって唸る。わざとやってるの?と思われがちだけど、腕を組んで唸った方が良いアイデアが浮かびそうじゃない。

我ながら色々な「#癖」を持ってるな~と思うのだけど、どれも自分で分かっていたことではなく、どれも他人から言われて気が付いたことばかりだ。

そして癖を他人に知られるのって、なんか少し恥ずかしい。それはきっと癖に上げられることは、他人からみたらヘンなことで、だけどその集合体が自分という人間を作っているからなのかもしれない。

自分を作っているから、と言っても、他人から嫌がられるような悪い癖は直した方がいい。あまりに悪い癖はきっと社会的に抹殺されるだろう。

『死刑にいたる病』という映画がある。

「もしよければ、一度会いに来てほしい」

親の期待に沿えず、理想とは程遠いランクの大学に通う雅也のもとに、ある日1通の手紙が届いた。
それは、24件の殺人容疑で逮捕され、世間を震撼させた連続殺人事件の犯人・榛村からだった。
当時の榛村はパン屋を営んでおり、中学生だった雅也もよくそこに通っていた。

「最後の事件は冤罪だ。犯人は他にいることを証明してほしい」
榛村は自身の罪を認めたものの、ただ1件だけは冤罪だと訴え、雅也に証明してほしいと依頼する。
雅也は独自に事件を調べ始め、やがて想像を超えるほど残酷な真相にたどり着く。

(※ここから少しネタバレあります※)

この映画のタイトルはキルケゴール『死に至る病』をオマージュしている。

本を読めば早々に分かるのだが、死に至る病とは「絶望」のことを指している。
(キルケゴールは大きく絶望を4種類に分けているが、今回の話とは関係ないので割愛する。興味がある人は読んでみてね!)

その絶望は誰もが抱く可能性がある。抱いたとしても無くなったり、また抱いたりして生きていく。しかしずっと持っていると死に至る。だから病といえるのだろう。

じゃあこの映画の「死刑」にいたる病はなにか?というと、それが癖なのではないかと思う。

他人から見るとヘンなことで、その本人を作っているもの。癖。それが法の範囲外になってしまうと、死刑にいたる可能性もある。

榛村のことをサイコパスと呼ぶのは簡単で、そんな特別の性質は自分に関係ないと思ってしまう。
しかしこれを「癖」と考えると、いやいや特別なことではなく、まだ誰も気が付いていなだけ。そう考えるとこの映画がグッと身近になるのではないだろうか。

その人を知るためには話したりするよりも、癖に注目するのが一番なのかもしれない。まずはこの映画を観て、親しい人の癖が榛村とは違うかどうか注目してみてはいかがだろう。


文章:真央
編集:アカ ヨシロウ

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