浄化と昇天の場所
今年も12月。あっという間に1年が終わろうとしている。年々、時が経つのが早くなっている気がするのは、何も僕だけではないはずだ。
12月になると頭の片隅を通り過ぎるのは「こうしてあっという間に死んでいくのかな」という得も言われぬ感覚。いつ死ぬかとも分からない中で、考えても仕方ないことだから、この感覚が顔をのぞかせる度に、ササっと両手で振り払う。でもどうやら今年はのやつは強いらしい。
別に何を成し遂げなくても、死ぬまで毎日楽しければそれでいい。どうせ死んでしまったら、今のこの感覚もなくなってしまうだろう。
それはまるで、トイレで排泄されたモノたちのように。消えて綺麗になくなってしまうだろう。
それでもどうしてか「生きているうちに何かを成し遂げる」ことが求められて、生きる価値みたいなものを探す脅迫観念に駆られる。だからもう1ヶ月後には「新年の目標」なんてものを毎年毎年飽きもせずに掲げるの。叶えようと叶えまいと、無駄になってしまうとも思わずに。
排泄物のような最後だとしても、命が終わる直前まで一生懸命に抗いたい、この世に何か残したい。そう考えられるのがきっと人間なんだと『トイレのピエタ』観ると思う。
画家への夢を諦めてフリーター生活を送っていた宏にとって、ただやり過ごすだけだったこの夏。ところが、突然余命3ヵ月と告げられ最後の夏になった。その時に出会った女子高生・真衣と、一生に一度の忘れられない夏を紡いでいくお話。
宏は夢を諦めてから、生きているとも死んでいるともせずに、ただ漫然と過ごしていた。余命宣告を受けてからも特別変りもせず、ただただその時まで変わらず生きている。一方の真衣は、未来がある女子高生ながら家族のことで日々苦労をして逃げ出すこともせずに懸命に生きている。
この二人の恋物語がメインではあるが、最後の最後に宏が輝きを魅せるシーンがとても印象的だ。
この映画は手塚治虫の最後の手記『トイレのピエタ』に着想を得たそうだ。実はそうとは知らず先に映画を観たのだが、この手記もまた印象深かったので引用する。
手塚治虫ほど何かを残していても、むしろそれだけ残した人だからこそなのか、死ぬ直前まで「何かを残したい」という強迫観念に囚われている。
ちなみに「ピエタ」とはイタリア語で哀れみや慈悲などの意味で、聖母子像のうち、死んで十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリアの彫刻や絵の事を指すそうだ。
もしかしたら「何かを残したい」という思いと同じくらい「解放されたい」という気持ちもあったのかもしれない。だからピエタを選んだ。
トイレは汚いものを綺麗に洗い流してくれる場所。そこで最後の輝きを放ったならば、すべてを綺麗さっぱり昇天させてくれるに違いない。そこにピエタがいたなら最高だ。
年の瀬に、トイレでピエタに想いを馳せるのも良いかもしれない。
文章:真央
編集:アカ ヨシロウ
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