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私の26年間〜楽しいことも、悔しいことも、悲しいこともたくさんあった26年間の振り返り。〜


プロローグ

まずはこのnoteをお読みくださった皆様、ありがとうございます。

わたしは、今話題の芸能人でもYouTuberでもインスタグラマーでもないただのどこにでもいる子育てをする一人の人間です。

特別なことや派手なことは特にない人生だけれど、26年生きてきて頑張りすぎて、無理しすぎて、立ち止まったことがたくさんありました。
でも、そのおかげで気付いたこともたくさんあったので
私の人生を振り返りながら、もし少しでも共感できる部分があってあなたの心になにか残ればいいなと思っています。

今はまだ生まれたばかりの娘がいつかこの本を手に取ったとき自分が生まれる前のママの人生、どんなふうに感じてくれるのか、今からちょっと楽しみです。

オネエ言葉を喋る父

1996年6月、私の父と母は結婚した。
私の父はフィリピン人で母は日本人。よく見かけるフィリピンのハーフの子は母がフィリピン人のパターンが多いので、私は珍しいタイプだと思う。

日本に働きにきていた父と母が出会い、まだ友達関係だった両親だが父が「あんた、フィリピンに来なさいよ」と声をかけたらしい。
ちなみに父がなぜ、オネエ言葉なのかというと歌舞伎町のフィリピン人のゲイバーで働いていたからだ。父は、私には言わなかったけどおそらく女性に恋愛感情を持ったのは私の母だけで、それ以外は男の人が好きなんだろうと子供ながらに薄々気付いていた。
私が小学生のときHey!Say!JUMPにハマり、部屋にポスターを貼っていたとき、父が山田くんを指差して「あら、パパこの子がいいわ♪」と目をキラキラさせていたことを今でもしっかり覚えている。

話は脱線してしまったが、父にフィリピンに来なさいと言われた母は一度も海外に行ったことがなかったのにパスポートを取り、初めての海外でフィリピンを訪れたそうだ。
初めての海外、初めての飛行機、不安なまま日本を飛び立ちフィリピンへ到着。
入国手続きや荷物検査を終え、母は父の迎えを待ち入国ゲートを出た。
ところがそこに父の姿はない。
代わりにいたのは「勢津子さん、ようこそ」と書かれたプラカードを持ったオカマのおじさんだった。日本語は全く話せない様子だ。

初めての海外、フィリピンに来て見知らぬオカマのおじさんに誘拐されるのではないかと死を覚悟するほど不安だったと聞いた。
けれどここまで来たら、ついていくしかない。
見知らぬオカマのおじさんに案内された車に乗り、父の実家であるバタンガス州を目指した。
道中もオカマのおじさんが陽気に話しかけてきたけれど、母は不安だったに違いない。

ニノイアキノ国際空港から2時間ほど車を走らせたところでようやく、父の実家に到着。
「よかった、誘拐じゃなかった…」とまず思ったと母は言っていた。

実家の庭に父は座っていた。「あらあんた、遅いじゃない。待ってたのよ」とサンミゲルビール(フィリピンのビール)を片手に手を振っていたそうだ。
空港に迎えに来てくれたオカマのおじさんは、父の友人だった。

なぜ父が、母を空港に迎えに行かなかったのか。それは「空港が遠いから、友達に行ってもらった方がいいと思った」と言い放つ。
私の父は、とんでもなく自分勝手でマイペースな人間なのだ。マイペースではあるが、陽気でカタコトのオネエ日本語でいつも言っていた。「わっからないよ、パパ!フィリピン人だから!」
これは自分に都合の悪いことが起きた時にいつも放つセリフだ。
こんなマイペースな父だが、いつも笑っていて楽しいことが大好きな人だった。
自分勝手でマイペースなのに、どこか憎めない。そんな父だった。

   

せっかちすぎた誕生

1997年、母が妊娠した。出産予定日は1998年の2月。私の姉は16個上なので、母にとっては16年ぶりの妊娠である。
妊娠した当時、フィリピンで父と暮らしていた母。
妊娠がわかって、喜んだのも束の間。ひどいつわりで一切食事を摂れなかったという。
日本であれば、例えば梅干とか吐き気のあるときに食べられそうな食材がすぐ手に入るがそこはフィリピン。にんにくやお酢を使ったにおいの強い食べ物ばかり。
母は、寝室でひたすら寝て過ごしていたそうだ。

ある日、母は大量出血を起こした。フィリピンの病院は、当時まだまだ発展途上で助かるかわからない、と出血をしているのにもかかわらず母は日本に帰国することを決意した。
帰りの飛行機、どれだけ不安だっただろう。

無事に日本に戻った母は、横浜市の佐藤病院に入院することになった。
その段階でまだ予定日まで5ヶ月はあった。
とにかく安静にして、トイレも歩いて行けずに尿道カテーテルを通し入院をした。
だが、母はまた大量出血をし危ない状況になったためより設備の整った病院、横浜市にあるこども医療センターに転院した。

1997年10月27日 午後2時29分      
私が生まれた。
25週という、早すぎるお産。超低出生体重児だった。身長は34cm  体重は690g。大人の片手にすっぽり入るサイズだ。生まれた段階では、まだ肺ができていなかったため、私は生まれてから数ヶ月保育器に入っていた。

私は自他共に認めるせっかちだが、生まれるタイミングもせっかちだった。

この週数で生まれた赤ちゃんはほとんど、目や耳が不自由になってしまうと
医師から説明を受けたそうだ。
25歳になった今の私は、身体も不自由なく健康に生きている。
これはすごく奇跡的なことだと、普段生活しているとすっかり忘れてしまうけどそう思う。

無事に生まれ、誕生から数ヶ月後に退院した。
そのとき父はフィリピンに一時帰国していたため、母は横浜の実家で叔母と祖母と育児を始めたらしい。

小さく生まれ、命の危険も不安視されていたけれど私はすくすく成長した。

けれど、そこから両親を困らせたのは私の激しい癇癪とイヤイヤ期だった。

 親戚の間で語り継がれている私の癇癪エピソードがある。2歳ごろの話。横浜のおばあちゃんの家の近くで毎年、縁日が行われている。
母や叔母、祖母とともに縁日に連れて行ってもらった私は「スーパーボールすくいをやりたい」
と言い出した。
母にお金を出してもらって、スーパーボールすくいをやった。2歳の私はもちろん初挑戦で
勢いよく流れるスーパーボールを取ることができなかった。
その瞬間、私はスーパーボールの流れる大きなビニールプールに手を突っ込み「いやだああぁあぁ!」と、激しく水をかき混ぜてびちゃびちゃにした。
これには親戚一同ドン引きである。

そしてもう一つよく語られる話がある。
2歳~3歳ごろの私はとにかく偏食。まともな食事が嫌いで好むのはお菓子ばかり。
母は本当に苦労したと思う。超低体重で生まれたので、なおさら栄養を摂らせようと必死にご飯を食べさせようとした。ご飯を私の口に運ぶと、幼児とは思えない力で振り払い
「ご飯なんか大っ嫌い!!!」と泣き叫んだらしい。

この話自体を私は、全く覚えていないが母には心から申し訳なく思うし
それと同時に感謝している。

26歳になった私の好きな食べ物は、カレーライスやパスタ、焼肉など色々あるけど2歳の頃のようにお菓子だけを食べる生活では一切ない。
身長も小柄ではあるけど155センチあるし、体重も普通だ。

だから、超低体重児に生まれて幼児期にお菓子ばかり食べていても子供って、それなりに成長するんだと思う。
ちなみに、おむつも3歳まで外れなかったらしい。家でいくらトイレに行くように促しても
頑固の極みだった私は嫌がりおむつを履き続けていた。言葉は達者なのに、おむつを履いている生意気な子供だったと思う。
おむつが取れたのは、本当に急でインフルエンザにかかり小児科に入院していたとき
「もうおむつ要らない!おトイレいける!」と高らかに宣言しておむつを卒業した。
おむつ外れが遅かったからなのか、おねしょをすることはなかったらしい。
大丈夫。おむつ外れが遅くても私は今なんの支障もない。もちろん、お漏らしもしたことはない。

それでも実際に子育てに向き合うと、離乳食を食べてくれなくて悩んだりトイトレ、イヤイヤ期に悩むこと絶対にあると思う。
けれど、あまり気負わず娘と過ごしていきたいな。と今のところ思っている。
まだそれは願望の段階だけれど。
           

馴染めなかった小学校、そしてフィリピンへ


癇癪を起こしまくり、両親には迷惑をかけまくった保育園時代が終わり
ついに小学校入学。
入学前に母と近くのダイエーでランドセルを見に行った。
もう入学シーズンが近いこともあり売り場に売っていたのは黒か、原色に近いはっきりとした赤のランドセルしかなかった。もうちょっと可愛い赤とかピンクがいい。と思った記憶はあるけど
きっとあまりランドセルにお金をかける余裕もなかったのかもしれない。
私は問答無用で、原色に近い赤のランドセルを買ってもらうこととなった。

私の住んでいたマンションから小学校は目と鼻の先の距離だった。
家のベランダから、小学校の校門が見える場所だった。

小学一年生のとき、当時22歳だった姉はキャバクラで働いていた。
朝7時、私が学校に向かおうとマンションのエントランスを出たときだった。
仕事帰りの姉が酔ってフラフラになりながら「け~い~!! いってらっしゃ~い!頑張ってね~!!!」と叫びながら全力で手を振ってきた。
今思えば、妹想いの優しい姉なのだが小学1年生の私には恥ずかしくてたまらなかった。
登校する他の小学生や先生に見られ、注目を浴びた。私は姉の声を全無視して横断歩道を渡った。
姉がマンション内に入ったのを確認。「よし、もう大丈夫だ」と安心し無事に小学校の校門に到着した。あ~恥ずかしかった。そう思いながら、昇降口に向かう大きな階段を登る。
「け~い!大好きだよ~!!」 ん?また姉の声がした。え?なんで。姉はもう家に帰ったんじゃ?  ビクビクしながら振り返ると、姉はマンションのベランダからまた手を振っていた。

この光景はいまだにはっきりと覚えている。恥ずかしくてたまらなかった。
だけど、姉は本当に妹想いで優しかった。初めての自転車も姉に買ってもらったし、姉が妊娠し 臨月に差し掛かった頃にも、私を連れてフジテレビのお台場冒険王に連れて行ってくれた。

歳が離れすぎて、姉というより親戚のお姉さんに近いけれど。
楽しい思い出が大半だったけれど、酔っ払ってベランダから私の名前を叫ぶのだけはやめてほしかった。

そして小学1年生で、両親は離婚した。

「パパとママ、どっちについていきたい?」と親が離婚経験のある人なら聞かれたことがあるであろう悲しいセリフを言われ「どっちでもいい。どっちも好きだから」と答えるしかなかった。

気付いたら、陽気なフィリピン人パパと離れ母と暮らすことになった。

シングルマザーになった母は、夜働きにでるようになった。
最初は寂しくて毎晩のように玄関で泣き叫んでいたけど、気づくと慣れてしまうものだ。

母の出勤を見送り、すぐにリビングのテレビにかじりついた。

その頃流行っていたのは、IQサプリとか、エンタの神様。エンタで好きだったのは桜塚やっくんだった。ドラマは、野ブタをプロデュースとか 花より男子、花ざかりの君たちへが流行っていた。
 気づくと好きにテレビが観られる環境が子供ながらに楽しくて、夜の留守番は怖くなかった。
当時は本当にそう思っていたけど、心の奥では本当は寂しかったんじゃないかと思う。
だから母に反抗的な態度も取り続けた。 
どんどん、母との距離が離れていく気がした。

小学4年生の夏頃、母に「パパと一緒に住みたい?」と聞かれた。
今思えば私があまりにも反抗的で母と関係がうまくいっていなかったから、パパっ子だった私のために提案してくれたのだと思う。

そんなことに気づかない私は、「うん!パパの方が優しいからパパと住む!」と即答した。
母はきっと悲しかったに違いない。一生懸命、夜通し働いてくれていたのに
そのせいで娘との関係が悪くなっていたから。
 
自分が親になった今だからわかる。子供と離れて暮らすなんて、辛いに決まっている。そして、母と住んでいた千葉県市川市から父の住んでいる、埼玉県越谷市に引っ越した。
父の職場は歌舞伎町から埼玉県になっていたけど、フィリピンのショーパブなのは変わらなかった。 世間一般でいうお父さん、とは違うけどいつも陽気で面白い父だった。

そんな父と暮らし始め、埼玉県の小学校に転入する。
そこはマンモス校でひと学年に7クラスはあったと思う。ひとクラス40人もいて、とにかく人が多くて、前の小学校とは全然違う環境に馴染めなかった。

でも、そんなとき声をかけてくれたのが夢という子だった。
小学生なのに茶髪で声が高くて、テンションが高い。とにかくギャルみたいだった。第一印象はとにかく怖い。いじめられそう、と思った。(夢がこれを読んでいたらごめんと謝りたい)

でも夢は見た目に反してすごく優しくて、近くのマリオンクレープに通ったり南越谷駅の近くにあるゲームセンターでプリクラを撮ったり。
当時、Hey!Say!JUMPがデビューした頃で、夢は山田くんと有岡くんが好きだった。
私は中島くんと森本くんが好きだった。二人でMYOJOやPOTATOというアイドル雑誌を買っては推しの切り抜きを交換し合っていた。
埼玉県に引っ越してからの思い出はほぼ全てが、夢と遊んだことだ。
学校には馴染めなかったけど、夢と遊ぶのが楽しかった。

26歳になった今でも、夢とは連絡をとっているし数年に一度だけど会ったりして
交流が続いている。私の大事な友達のひとりだ。

この先も、夢と過ごすんだろうなぁと思っていた小学5年生の秋。
私は突如、フィリピンに引っ越すことになる。

父がフィリピンに帰らなければいけなくなってしまい、私は母の元に戻るか
フィリピンで暮らすかという二択を迫られた。
今の私なら、急に海外で暮らすなんて怖すぎるし無理だから母の元に戻る、と言うだろう。
でも小学5年生の私が出した答えは「フィリピン楽しいから、パパとフィリピン行く!」だった。

また母はきっと辛かっただろうと思う。父と暮らすからと離れたとき。そして、今回は日本から出てフィリピンだ。以前のように簡単には会えなくなる。本当に辛かったと思う。 でも私は、旅行に行く気分でウキウキしながら「ママ、じゃあね!」と手を振りあっけなくフィリピンに行ってしまった。
母、ごめんね。寂しかっただろうと思う。

どっちつかずな自分


こうして2008年12月。私は父と共に、成田空港からフィリピンに飛び立った。この時の私の気持ちは旅行気分そのものだった。フィリピンに行った後のことなんて、なにも考えていない。怖いもの知らずな状態だった。
フィリピンには、いとこや親戚がたくさんいておそらく総勢100人近くになると思う。その当時、日本語しか話せなかったけど不安や恐怖は全くなかった。何かあれば、父がいるからと安心しきっていた。
実際、いとこたちは言葉が通じなくてもジェスチャーを交えながらたくさんコミュニケーションを取ってくれた。
日本にいるときは、一人の時間が多かった分すごく楽しくて嬉しかったのを
覚えている。
ただ、旅行であればこの楽しい気分のまま終われるのだが、私はフィリピンという異国の地で生活することを選んだのだ。そこには、楽しいだけではない辛い時期も存在する。
フィリピンに来て、2ヶ月が経った頃私は現地の小学校に転入した。
そこは現地校で、日本人学校ではないので英語もタガログ語もできない私は
急にコミュニケーションの取れないクラスメイトたちの中に放り込まれた。
トイレの場所はどこにあるの? 次の授業は何をするの?そんな簡単なことすら、理解してもらうのに時間がかかった。もちろん授業は全て、英語。
黒板に何が書いてあるのか、何の授業なのかは全くわからなかった。
何もしていないのは変なので、黒板に書かれた筆記体の文章をひたすら写す。それだけをする1日だった。

ある日の授業、フィリピンの小学校は教科ごとに先生が変わるのだが
初めて当たった先生だった。確か、SCIENCE(理科)の先生だったと思う。
「教科書のこの部分を読みなさい」英語もよくわからないからなんとなくだけど、そう言ったんだと思う。名前を呼ばれ、起立させられた。
つたない英語を一生懸命読んだ。すごく時間がかかって、先生に「もういいわ。そんなのも読めないの?」と言われたと思う。
とても辛かった。私は、日本にいればハーフだと言われフィリピンに来れば
日本人だと言われる。日本人でもフィリピン人でもないような、私は一体なにものなんだろうと虚無感を感じたことを今でも覚えている。

その日から、私は小学校に行かなくなった。
部屋にこもりきり不登校になった。父は「学校に行きなさい」と初めのうちは言っていたけど、事情を説明したら理解をしてくれた。
結局、自分のアイデンティティを見失った小学5年生の私は1年近く学校に行かなかった。その間は部屋にあるパソコンでyoutubeを見たり
当時は、ガラケーだったので日本の家族や友人にパソコンのメールでやりとりをしていた。

学校に行っていない間は、「学校に行かなくていいなんてラッキー!」ぐらいの気持ちで長い夏休みのような気持ちだった。
けれどそんな気持ちでいるのも、せいぜい半年くらい。
普通に学校に行っているいとこ達を見て、焦りを感じ始めた。
私も学校に行かなきゃ、と。

その頃、父が同じリパ市内にあるインターナショナルスクールを見つけてくれた。そこには、韓国人や台湾人、日本人の子もいてとてもフレンドリーだった。
ここなら通えるかもしれない!と転入を決めた。
フィリピンは小学校も義務教育ではないので、休んでいた分もう一度5年生のクラスからやり直した。ひとつ年下のクラスメイトと共に勉強した。
その学校では授業がわからなくてもクラスメイトが助けてくれて、環境に恵まれていた。
少しずつ英語とタガログ語も話せるようになりコミュニケーションも取れるようになっていた。

2つ目の小学校はとても楽しく、無事に小学校を卒業した。

中途半端な自分


小学校を卒業した頃、私のフィリピン居住歴は3年目に突入していた。
このままフィリピンで進学し、就職していくことも考えたが
フィリピンはまだまだ発展途上。仕事の数も少なく、自分のやりたいことの選択肢がフィリピンでは少なすぎる気がした。
やはり日本に戻って、高校に行こうと決めた。
父はフィリピンに残るしかない状況があり、今度は父と離れることになった。

日本に帰るため、一人で飛行機に乗って成田まで向かった。
父は空港まで送ってくれたが、「気をつけてね」とだけ言って立ち去ってしまった。おそらくだけど、父は泣いていた。私も涙を堪えながら、たった一人12歳で飛行機に乗った。

これが父を見た最後の姿になってしまった。

4時間のフライトを終え、無事に日本に到着した。
母と姉が空港まで迎えに来てくれていた。

父のことで寂しかったけど、母と姉の顔を見て少し安心した。
日本に戻ってきて、まず最初に食べたのは天ぷらだった。
3年間、フィリピン料理しか食べていなかったので本当に久しぶりで
人生でいちばん美味しい天ぷらだった。

日本に戻ってきて、のんびりはしていられなかった。
ちょうど夏休みだったので市役所で引っ越しの手続きや中学校への編入の手続き、制服の用意など本当に忙しかった。

2011年9月 私は、千葉県市川市の公立中学校に転入した。
そこでまず感じたのは、授業についていけないということ。
小学5年生でフィリピンに移ったために、3年間分の授業がまるっきり抜けていたのだ。
数学は特についていけずに、常に20点台だった気がする。
それでも、フィリピンで覚えた英語で英語のテストだけは90点台だった。
でも100点は一度も取れなかった。 なぜなら、フィリピンで使っていた英語はコミュニケーションを取るための会話の英語で、感覚で使っていたから。授業で習うような文法は全くわからなくて、帰国子女なのに90点台までしか取れない。
本当に中途半端な状態だった。
この時期は本当に辛かった。帰国子女、という目で見られて「英語話してみて」とか「タガログ語教えて」とか話しかけてくれるけどみんなが気になっているのは”帰国子女である自分”に対してであると気付いていたから。
もっと私自身をみて接してほしいと思っていた。

そんなとき、同じクラスの藍未という子が話しかけてくれた。
色白で優しい笑顔で接してくれて、中学の間はずっと藍未と過ごした。
中学にあまりいい思い出はないけど、友達がひとりいるだけでも救われた。
その頃、原宿に遊びに行ったときある一人のスカウトに声をかけられた。
それはワタナベエンターテインメントスクールの広報さんだった。
中学3年生だった私は、芸能界に憧れていてやってみたい!と思った。
パンフレットをもらって帰り、早速母にスクールに通いたい。と告げた。
きっと無理だろうと思っていたけど、母は「やってみたらいいんじゃない?」と背中を押してくれた。

スクールに入ったことは自分の中で大きな変化だった。中学校が嫌いだった私にとって、もうひとつの居場所になった。
私が入学したのは土曜日の午後の授業であるマルチタレントEコースだった。土曜日の授業なのもあって、日本全国から芸能界を目指して来ている子が多かった。
関東はもちろん、愛知や鹿児島、福岡や滋賀、宮崎まで本当に幅広く
中学校のような、ただ近くに住んでいるだけの同い年が集められた閉鎖空間ではなくもっと広い世界を見た気がした。

そこで一生の友達に出会った。晴名だ。
晴名は私の2つ上で背が高くて細かった。スクールの一番最初の授業で、自己PRとして絢香の歌を歌っていた。すごく歌がうまくて、話しやすそう。と思ったのが第一印象。

スクールでは、ダンスや演技などいろんな授業をしたけど授業以上に晴名や他の仲間たちに会えるのが楽しみでスクールに通っていたんだと思う。

スクール卒業の際に、公開オーディションというものが行われ40社以上の芸能事務所のスタッフが集まり、事務所所属をしていく。
私はそのとき4社にスカウトされたけれど、芸能界は自分からどんどん前のめりに売り込んでいかなければ生き残れない世界。
私にはできない。自信がなくて、4社ともお断りした。

芸能界には入らなかったけど、一生ものの友達に出会えたことは大きな財産になった。

晴名は今、結婚しママになっているけど今でも毎週連絡をしている。本当に深い親友に出会えた。

スクールに入れてくれた母に、心から感謝している。


同じスタートライン

スクールに通いながら、高校受験をした。中学ではあまりいい思い出がなかったので、なるべく地元の知り合いがいない隣の浦安市の高校に進学した。
中学校のときとは違って、みんな同じタイミングでの入学。
みんな同じスタートラインで始められたから、高校はすごく楽しかった。
中学で仲良くなった藍未も同じ高校に進学した。

部活は、弓道部とダンス部で迷ったけど藍未がダンス部に入ると言うのでダンス部に入部した。
当時は、野球部附属ダンス部で主に野球部の応援としてチアダンスをやっていたり当時流行っていたKPOPのダンスのコピーをしていた。

けれど、アルバイトもしたくて高校一年生の1学期中にダンス部は退部してしまった。
そして、地元の銚子丸という寿司屋でアルバイトを始めた。厳しい女将もいたけれど愛情のある方だったから楽しかった。
このバイト先は結局高校3年間続けた。

高校2年生になったころ、ダンス部の顧問が変わった。
「けいちゃん、もう一度ダンス部に入らない?」とスカウトされて、バイトをしながらという条件をのんでもらって再入部した。
一度やめた私を、快く受け入れてくれたダンス部の5人には感謝しかない。本当に恵まれた環境だった。
高校生活は順調で、楽しい3年間だった。


理想と現実

高校3年になると、進路を決める頃になる。大学進学や専門学校への進学が多く、私も航空系の専門学校に行きたかった。
小さいときから何度も、飛行機を利用していたし空港のグランドスタッフに憧れていたからだ。
進学を考えていたけど、家庭の経済状況から進学は難しかった。
奨学金を借りてでも進学すればよかったかもしれないけれど、その時の私は早々に諦めてしまった。早く就職して、母を助けるべきだと思ったからだ。
高3の夏休み、高校の進路室で求人を見ていた。
私がやりたかったのは航空系だし、他にやりたい仕事もなくて
半ば諦めながら、求人票を眺めていた。
チョコレート工場の求人が目に入った。 チャーリーとチョコレート工場という映画を見たことがあって、あんな感じかな?チョコ食べ放題かな?というものすごく浅い理由で会社見学に行った。
工場なのでものすごくチョコの甘い匂いがした。
チョコは大好きだけど、あの甘ったるい匂いを一日中嗅いでいたら気持ち悪くなりそう。そう思って、会社見学中には諦めていた。 工場見学の帰りに、業務用の30センチくらいの板チョコをもらって帰った。会社見学に行ってよかったのはそれくらいだ。

高校に戻り、また一から求人を探した。
そこでたまたま目にしたのが「成田空港での旅客サービス業
これだ!私がやりたかったグランドスタッフの仕事だ!と。その日のうちに、会社見学を申し込んだ。

地元から成田空港までは電車で50分ほどかかったけど、自分のやりたかった仕事を見つけて舞い上がっていた。
スカーフ巻いて、かわいい制服で働くんだ~と完全に夢見ていた。

そして、無事に成田空港の会社に内定をいただき入社が決まった。
成田までは通うのは遠すぎるので、必然的に18歳から一人暮らしになった。それでも、自分のやりたい仕事ができると信じて不安は全くなかった。
会社が用意した会社寮に入居し、社会人がスタートした。

でも、配属されたのはリムジンバスのスタッフだった。
憧れていたスカーフを巻いてチェックインカウンターに立つグランドスタッフとはほど遠いかった。

高校の友達には、グランドスタッフになるんだと高らかに宣言してしまっていたから、恥ずかしくて言えなかった。
みんなには嘘をついてスカーフを巻いて働いている体にしていた。
そもそもリムジンバスの乗り場のスタッフなので、屋外だった。夏は40℃近くなるし、冬は雪が降る中での仕事だった。リムジンバスの排気ガスで鼻の中まで真っ黒になった。
加えて、空港という特殊な場所であるためにシフトもバラバラだった。4勤2休(4日働いて2日休むの繰り返し)制で
シフトは早番から遅番までバラバラだった。

憧れていたグランドスタッフではない上に、労働時間も長時間。給料は本当に少なかった。
今思えば、ブラックだったと思うけれど当時の私は無知だったから社会人はみんなこうやって頑張るものだ!と不調を感じつつも仕事していた。

でもどうしても、グランドスタッフの部署に異動したくて上司に掛け合った。何度も何度も話して、やっと旅客サポートケアの業務を兼任できることになった。
制服は青い航空会社のものを着ることができたし、旅客のサポートをすることができて本当に夢が叶って嬉しかった。

やっとやりたいことができた!
憧れていた制服に身を包んだ日のことは一生忘れないと思う。

けれど、現実は甘くなかった。長時間労働で睡眠不足に加えて、屋外での業務。真夏は熱中症になりながら仕事をし
疲労は限界を超えていた。
気付いたら、私は出勤の準備をする気力がなくなった。
仕事に行かなくてはいけないのに、動けなくなった。私の体力も気力ももう力は残っていなかった。

そんなタイミングで、父がフィリピンで他界した。
亡くなるその日の朝まで元気だったが、心筋梗塞で急なことだった。
仕事でも限界を迎えていた私は、父の死で完全に病んでしまった。

あんなに憧れていた制服を着て、やりたい仕事ができたのに。
辞めざるを得なくなって、悔しくて悲しくて、自分が情けなくなった。
やっと旅客の仕事ができたのに。そう思って、会社に未練を残したまま会社の寮を出るしかなかった。


孤独の横浜

憧れだった成田空港での仕事を辞め、実家に帰るしかなかった私。
母が横浜に引っ越していたため、私の実家は土地勘のない横浜になってしまった。

急な退職だったのもあり、一人暮らしのアパートを契約するお金も心の余裕もゼロだった。なるべく母に頼ることなく生きたかったけれど、このときばかりは仕方なかった。
母も当時、ワンルームのアパートに住んでいて私がそこに転がり込む形になった。もちろん、住まわせてもらって感謝しているし母がいなかったらどうなっていたかわからない。
でも、いくら親子とはいえ6畳のワンルームで生活するのはお互いに余裕もなくなり言い合いも増えてしまった。このときのイライラも、自分に対するものだった。「空港の仕事を続けられなかったせい。」そう思っていた。他責状態だった。
そんな状態でも、とにかく働かなくてはいけない。
最初は、ホテルマンとか華やかな職場を探していたけれど
母に「少し心休めなさい。なんでもいいじゃない、ファミレスのバイトでもコンビニでも。正社員にこだわらず、少しゆったり構えてごらん」と言われた。

高卒で社会人になって、必死に立派にならなきゃいけないと気を張り続けていた。正社員じゃないとだめだと思い込んでいた。

母にそう言われて少し気持ちが楽になった。

そんなときに横浜スタジアムの近くを通った。マクドナルドがあった。そういえば、高校の同級生がマックでバイトしてたなぁ。と思い出した。ポテト美味いよなぁ~とぼやっと思っていたら、店舗のドアに求人が載っていた。
横浜スタジアムの近くにはマックが2店舗あったけど、片方が時給が高かったのでそっちに応募してみることにした。

あっという間に面接が受かり、週5日の8時間きっちりシフトを入れた。
元々空港で長時間労働していたし、シフトも不規則だったからマックのバイトは正直余裕だった。それに、職場の人もみんないい人で慣れない横浜で
少し気持ちが楽になった。
マックのシフトに入った初日、17時からのシフトだったと思う。
そのとき店舗のシフトマネージャーをしていたのが
後の夫である。
その時の印象は特になかった。「岡野です。よろしくね」と言われただけ。声が低い、くらいしか覚えていないし テレビでよく「結婚相手に出会った
ときビビっと来た」とかいうけど
そんなものは全くの嘘だった。何にも感じなかった。ごめん、旦那よ。

でもマックの仕事は楽しくて毎日シフトに出ているうちに後の夫とも仲良くなった。寡黙だけど無駄な動きがなく仕事をしていた。マックで1年くらいバイトしたところで、私は転職を決意した。
やっぱり空港で働きたい気持ちが拭えなかったからだ。
マックの仕事は楽しかったけど、フリーターだし不安定なのが嫌だった。
こんなことを言いたくないけど高卒という学歴にコンプレックスもあったから、必死に立派になろうともがいていた時期なんだと思う。

この時まだ21歳だった。周りの同級生はまだ大学生だったし、もっと気楽に生きていてもよかった気がするが当時はそれができなかった。

そして、慌てて羽田空港の免税店の職場に転職をした。

焦り


21歳の私は、フリーターであることに焦りを感じて目についた羽田空港での免税店の仕事を始めた。免税店と言っても、総合免税店ではなくて
コスメコーナーだ。予期せず、美容部員になってしまった。
確かに空港での仕事だけど、美容部員の仕事は私には全く向いていなかった。メイクは好きだけど、毎日先輩にダメ出しされ販売ノルマにも追われ
嫌味もたくさん言われた。

正直、私には全く向いていなかった。
そこで気付いた。私がやりたかったのは”空港で働く”ことではない。人が好きだから、密に接客がしたいんだと。
空港の仕事をすることにこだわっていたけど、そのときその気持ちから解放された。

焦って物事を決めると、必ず空回りすることを体感した。なにもうまくいかないし楽しくない。

このとき、生きる上でのルールを決めた。

悩み事は焦っているうちは悩まない

ある意味、開き直った。日本に住んでいる限り、餓死することはないし立派に正社員である必要はない。必要最低限のお金があって、笑えていればそれだけでいいんじゃないかと思った。
ずっと悩んでいた闇から解き放された瞬間だった。

希望


ある意味開き直った私は、すごく生きやすくなった。
行きたい場所に行き、会いたい人に会う。
仕事のために生きるのではなく、生きて幸せだと思えるように仕事をする。
自分の一度きりの人生を仕事だけにしてしまうのは、もったいないと思うようになった。

開き直った私は、適度にアルバイトをしながら
友達と飲みに出かけたり大好きなback numberのライブに行ったり何よりも自分が楽しいと思える生き方にシフトチェンジした。
お金で買えない、貴重な時間を満喫した。

2019年の夏。
久しぶりにマックの職場のメンバーでバーベキューをすることになった。
私はもう職場を辞めていたけど、声をかけてもらって参加した。

みんな暖かく接してくれたし、当時の岡野さん(今の夫)と久々に会うこともできた。 
暑い中、みんなでレモンを絞ってレモンサワーを飲んで喋って今でもとても思い出に残っている。

私の楽しかった思い出は、全て”仕事”の縛りから解放された後のこと。
こんなに見える世界が変わるんだ、と感動した。


家族

2019年の夏に、岡野さんと再会した私はその後、年末の忘年会でまた会って付き合うことになった。

言葉数は少ないし何考えてるかわからないように見えるけれど心がとても暖かい人だった。

1年ほど付き合って、私は23歳になっていた。

コロナ禍でなかなか外出もできない状態だったけど、一緒にいて苦にならなかった。彼氏というより、家族だった。
そうして、2021年3月22日に結婚した。
まさか、この2年後に娘が産まれているとは夢にも思わなかった。


母になる

結婚し、私は大船駅にあるホテルで働くようになった。
とても明るくて優しい人たちばかりの職場で、やりがいを感じながら仕事をしていた。
そこで、ヨガをやっている先輩に出会った。
その方はとても明るくて、健康的でそんな風になりたいと思って
まずはホットヨガを始めた。心身ともに整えられるヨガは、今まで何も続かなかった私にぴったりだった。

RYT200というヨガの資格の勉強を始めた。
その先輩が、ヨガのインストラクターをしていたからだ。
きらきらして見えて、かっこよくてヨガの知識を深めたい!と思った。
コロナ禍だったからオンライン授業だったけど夢中になれて楽しかった。

そのタイミングで、妊娠がわかった。
とても嬉しかったし、だけど葛藤も大きかった。
元々そんなに子どもが好きではない私がママになって子育てをする未来が
全く想像できず見えなかったから。

子どもができたらいいな、と思っての妊娠だったけど
いざ妊娠がわかった途端、その責任の重さに押しつぶされそうになった。
まだ膨らんでいないお腹、エコーで赤ちゃんがいると言われても実感がわかない。母性なんて本当に生まれるのだろうか?ものすごく不安で、この気持ちを周りに話したら「母親失格」だと言われる気がして隠し通していた。
インスタで見かける、妊娠報告の投稿を見ては病んだ。
こんな素敵な妊婦さんになんかなれない。と思っていた。

勉強していたヨガの資格も、つわりがひどくて思うように進められず私の人生は「子ども中心」になるんだと悲観的になった。
きっとマタニティブルーだったんだと思う。

でも子どもを産んだ今、私が思うのはそれでいい!ということ。
親と子どもは別人格で、自分のからだから出てきた子どもだから
まるで自分のもののように思ってしまうけど、そうじゃない。

私はこれからも自分のやりたいことにはどんどん突き進むし、子どもがいるから諦めることはしたくないと思っている。
私の妊娠生活は全くもって、キラキラマタニティライフではなかった。
初期は激しいつわりで5日間入院した。毎日吐き、辛すぎて泣き、「こんなはずじゃなかった」とばかり思っていた。
周りの友達がお酒を飲んだり、出かけたり、羨ましくて、すごく悲観的だった。
もし、いま妊娠中の人やこれから妊娠を考えている人がいたら言いたい。
お腹をさすって幸せ~♪ かわいいベビー服をワクワクしながら買い物に行くような、そんなマタニティライフはないかもしれません。
それでも大丈夫。それでも、ちゃんと妊婦健診に行っているだけで
それは赤ちゃんのために過ごせているんだと思う。母性って何?って思いながら、お産も終えました。私は、子どもだけに向き合って子どもと過ごすようなママにはなれません。
なぜなら、私の人生だから。そして、娘にも娘の人生があるから私がやりたいことは、この先もきっとチャレンジするだろうと思う。
そして娘にも同じように、興味を持ったことややってみたいことを自由にやってほしいと願っています。

ミルク何グラム飲んだとか、体重が何キロだとか、そんな数字ばっかりに
こだわらず私は娘が元気で笑って育ってくれていれば子育ては間違ってないと思っています。

結婚、妊娠、転職、いろんな人生の変化があるけれど
この先も自分が主人公で生きて行きたい。

もちろん、娘にも。


エピローグ

ここまで読んでくださった、全ての皆様。本当にありがとうございました。
こんな普通な平凡ななにものでもない私の人生の振り返りに付き合ってくださり感謝申し上げます。

この本を書いたきっかけは、娘が大きくなった時に読んでほしいと思ったからです。
でも書いているうちに、人生を振り返るうちに、辛いことや苦しいことも
たくさんあったけれど一個一個乗り越えている自分に気づくことができました。
なにかに悩んでいて、悩みの渦の中にいるときは なかなか終わりが見えなくて、渦に飲み込まれそうになる。けれど、10年前に悩んでいたことって
もう覚えていないな。と思いました。
人は気付かぬうちに、壁を乗り越えているんだと思います。

人はひとりでは生きていけないから、弱くても転んでも
誰かの支えを借りながら生きていくんだと思います。

この本を読んでくださったあなたに、何か少しでも
力になれたら嬉しいです。

本当にありがとうございました。

                 Kei


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