一度こわして、もう一度作りなおす
何が足りないとか、どこに歪みがあるとか、比較的「気づいてしまう系」の人間として生まれ落ちてしまったから、大体誰かの世話や面倒をしてきた四半世紀だった。
私の強い意志や人生のあらゆる選択をよくよく見つめれば、自分で選んだように見えて、そのもっと根っこには重い人の言葉や思想や環境が種になっていた。
私がやりたいと思ってやったはずのものを尋ねなおすと、本当はそうじゃなかったかも、と思うことが多い。本当に私がやりたいこととかがいまだに分からないままでいる。
(ないわけではない、し、これやってみたいな程度の空想はどんどんするけれど。)
それは、私が私に自信がなくて、でも(だから)私が「私によって」失敗することが怖いから、かもしれないし、
私の欲を完全に私のものにすることに、恐れがある、ということもあるかもしれない。
ここ何日か、考えている。
今までは、鎖に繋がれたままでもなるべく良く踊れるような鍛錬をしてきた。それを私らしさとも捉えていた。
全部鎖が解けた今、私は私だけの足でどこに行きたいのかをずっと自分に問うている。
私の歩いている道を、私が歩きたいという理由だけで歩き続けられる力があるか。
軽くなった分、逆に、最近は心身のバランスを崩してしまった。
ミッション系の幼稚園に通っていて、そこでは常に「光の子として歩みなさい」という聖書のことばが掲げられていた。
そしてそれは今でも私の心の壁にうっすらかかっていて、「光であるなら、ちゃんと暗いところを照らさないとな」とずっと思っている。結局、自分の性分から逃げられないとこもあるなぁ。
これからは利他的であることを利己的にやろう。
私がやらないとしょうがなかったから、とかじゃなくて。
受動的でなく主体的に、誰かのためであることを楽しんで選びとろうと思う。もーっと純粋に楽しむ心をこれから習得していきたいな。表面的なのじゃなくて、本当のやつ。
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