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石は砕くか土に埋めたい

怒りや悲しみを原動力にして、自分の正義を武器にして、他人を裁くことをやめよう、と呼びかけたい。

感染症が拡がって、色んな人が色んな意味で余裕がなくなっている。
だから強い言葉で訴えてしまうし、そうでないと伝わらないこともある。
でも、こんな困難にこそ、本当に優しくあることが必要だ。


最近は色んな問題が次々沸いてきている。

家に篭ることで心身のさまざまな持病を進行させてしまう人。それを仕方ないと受け止めて屋内で悪化させていく人や、自分の健康を優先して外出する人。

自分の子どもが病弱ゆえにより感染症に敏感な親、子どもを預けて働きに出ないと家計を支えられない親、こもる子どもを虐待する親、それを屋内で耐える子どもや、逃げるように外出する子ども。
そんな余裕のない親にきつい言葉を投げられたり、家庭での対応を十分にしてもらえず業務過多になる保育や教育現場の職員。いつもどおり十分に教育を受けられない子ども。
卒業式のなくなった学生たち、もう一生会えない友達に会えなくなった人や、無理やりに会う人。

不安を抱えながら病院に向かう人、それを拒否される人、拒否しないと業務が回らない医療現場、医療を十分に受けられなくなる人、自宅にいて安静にするしかない人、今も病気とたたかう人。

感染しやすいからと閉めざるを得なくなった飲食店、アミューズメント施設、ライブハウスや、仕事がなくなった技術者・演者その他さまざまなスタッフ。生きていくために仕方ないからいつも通りに居ても批判に晒され、閉めることで多くの負債と落胆の声を受ける人。それらが無くなることで心の支えが無くなる人。

家族や仕事のためにどうしても必要だから朝早くから紙製品を買うためにドラッグストア前に並ぶ人、朝まで働いて帰っても、朝一に買われるから紙製品を買いにくくなっている人。

会社に向かい感染リスクに晒される人、感染して叩かれ煙たがれる人や会社、いつもと違う働き方をすることで対応に制限がかかってトラブルになったり業務過多になる人。
内定を取り消される人。仕事がなくなって、資金が尽きる会社、社員を休まさせざるを得なくなる会社、十分な保障なく収入がなくなる人、解雇される人、困窮する家庭。
職を失い食べていけず、のぞまない仕事につく人や、離れた実家に帰らざるを得ない人、その移動によって感染してしまう人。

著名人が亡くなったことで社会が大きく騒いだ時、自分の身内が亡くなったことが大きく取り上げられなかったことに対して、軽んじられて憤る気持ちややるせない気持ちになる人。大切な人がなくなった著名人の周りの人々の悲しみ。
普段から蔑ろにされているのに、こんなときにより忘れられたり雑に扱われる、色んな弱さを持つ人々。


…こんなのは一握りの例で、全ての人が、もっと色々ばらばらなしんどさを抱えている。

全ての苦しみの裏にも別の苦しみはあって、自分が誰の言葉を理解し、誰の痛みに寄り添い、どの行動を選択するかは制限できない、制限する権利もない。それは他人にもそうだと思う。

その人のに対して何か思う時、その裏まで想像できるか、自分はその人に手を差し伸べられないか、自分が手一杯でも差し伸られる人のところに連れていけないかを、私たちは想像できているだろうか。私は自信がない。けれど精一杯努力はしているつもりだ。

私にも、私にとってより大切に思う人、大切にしている信条や目標があって、それを生きるとしの芯にしている。
それらを守るための行動や主張が、もし浅はかで反社会チックで倫理に反しているように見えることでも、私は(少し怯みつつ)勇気を持ってその選択をしたい。
私は私の大切を守るからこそ、私と異なる大切を抱く人の声もちゃんと耳を傾けたいし、なるべくともに守りたい。

そして、それぞれの大切で安心する日常が、一刻も早く、少しでも大きく取り戻せますようにと祈っている。

少し状況が違うけれど、下の聖書のエピソードを思い起こす。

朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
ヨハネによる福音書 8:2-11 新共同訳


石を投げないといけない時も勿論ある。(政治は石の積み重ねによって出来ると思っているから私は政権に架空の石は投げ続けている)
とはいえ、私たちは相手を悪者扱いして、石を投げる義理はあるのだろうか。
不完全な石を投げられるほどの人間なのだろうか。
パワーはそんなところに使いたくない。
石を投げるのではなく、せめて建物を立てたりするのに使いたい。

相手が考えの至らないところを教え合うことは大切なことだ。
けれど、自分の思う正しさをみんなの正しさを代弁したかのように投げつけること、正しさによって石を投げることを正当化することはむごいと思う。

私も弱いから、石を投げてしまったことがたくさんあった。けど今それはすごく恥ずかしいことだなと感じている。
他人を憎まずに、バラバラな高さの肩を何とか並べあって(実際それをしたら濃厚接触になるけど笑)、なるべく1人も脱落しないように走り抜いていきたいな。

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