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不幸慣れすることの幸せ

育ってきた境遇が良い方だとは言えず、どちらかといえば割と不幸慣れしている自信がある。
色んな理不尽も憎しみも挫折もそれなりに経験はしてきた。

最近、昔より図太くなったなあと感じる。
もちろん、良くも悪くも敏感なアンテナは健在で、すべての兆しをキャッチしていくし、そのなかでキャッチする”嫌な予感”も、人生経験積んだだけ的中率も上がってきた。
打ちひしがれて悲しい気持ちで動きにくくなる日も、憎さをエネルギーに暴走してしまう日も、今までたくさんあったしそれは今でもなくはない。
でも、自分の心に要らない気持ちを手放す能力が徐々に育ってきたと実感している。

いわゆる「悪いこと」は、歳を重ねれば重ねるほど規模感が大きくなって襲ってきている気がする。もしくは、その規模感がわかるようになって、昔よりも重たいものとして認識してしまう。

私たちはだんだんと大きくなる峠を、うんざりしながら何度もこえて生き延びてきたし、きっとこえるたびに脚力がついてきたのだろう。
そして、さすがにこれで最後だろうと山を降りるときは確信するのに、ほどなくしてもっと大きい山が立ちはだかる。
全力で生きれば生きるほど、ある意味人生は不幸になる。
けど、その不幸の山頂に立つたびに、期待していなかった綺麗な景色を見ることができる。それは極上の幸せだと思う。
(山を登るときは、そんな景色なんていらないから降りさせてくれと思うのだけれど。笑)

良い目も痛い目も見ないと、私たちは私たちをバランスよく形作っていけないから、より良い私にアップデートしていくために、型崩れのない幸せばかりを求める意固地な自分を諦めていかなくちゃいけない。
ただ、痛いものを大きく痛がっていたら次の痛いものを迎え撃つのが怖くなるし、だから気持ちをふんわり受け止めたり、しっかり受け止めてケアしたり、時には逃がさなきゃいけない。

というところで、今日聖書を開いたら良い感じの言葉を見つけたので共有してみる。

わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。 わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。(ピリピ人への手紙4:11-12)


嬉しい日も悲しい日も、自分の心に無理ない程度に素直に従いつつ、自分に流されないように生きるのがコツである。

痛いことがあれば、そのあとに嬉しいことがあっても、どうしても痛さを先に思い出して引きずってしまうから、嬉しいことばかりをなるべくもう一度取り出してあたためて食べ直す。
痛いことは客観的に見直して、明日の私の教訓にする。そして次の戦いに備える。

安心に安心して、安心しきりたくない。
どうせしんどいことばかり続けば、それはそれでこたえて弱音を吐くだろう。穏やかな日々と穏やかな心を愛することも大切だ。
けれど、それだけじゃ、やっぱりそわそわする。

もっと、強められる感覚を、波風ばかり立つ人生を。


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