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わかりたいし、わかりあえないし、わかるよ

知り合いに色盲の人がいて、色盲だと初めて知った時について考えたこと。

その時、「色が見えない」という感覚が私にはわからなかったので、
「色が見えないとは具体的にどう見えないんですか?」と質問したけれど、「え〜…」と困り笑いで返された。

のちに考えてみれば、そもそも認知していないものを説明するなんてできないし、私が逆になんでそれが見えてるのか聞かれたら説明できないのでそれは愚問だったな、と反省した。
けれどその時の私は、その全く未知なものが今までとても身近にいたのに気づかなかったことを惜しいと感じた。

共感覚は思っている以上に共通ではなくて、わかりあえない事項が実はたくさんある。
私たちみんなが本当に共鳴できる日なんてないのだろう、と軽く絶望する。
私たちの「みえる」範囲で認知をするし、認知できない「みえない」ものの存在を認知しない(認知しないふりの場合もあるし、本当に意識に上らない場合もある)
そもそも客観は真の客観になり得ないし、だからどれだけ冷静な人間でも自分自身で自分の状態なんて完璧に知りきれるわけがないと思っている。

「私をわかってよ」だとか「君のことはわかっているよ」だとか
そんな風に、「自分」という“宇宙くらい果てしなく意味わからない存在や、更にそれらを無数に含んでいる世界”に対して、まるまるすべてを知っている前提で居られる人を素直にすごいなと思うし、たまに無知に思えて軽蔑してしまったりする。

自分のことが大人になっても、むしろ大人になってからさらに分からないから、たまに自分の意識していない自分を知られた時に、怖くなると同時にすごくその人を愛したくなる。
自分と同じくらい、相手のことは全然分からないと思っているから「わかる」って言葉を安易に使えない。
そんな相手の中に自分に近しいもの、自分が「わかる」ものを見出した時、抱きしめたくなる。

得体の知れないもの同士が、意識を超えて同じセンサーで鳴り合った時、嬉しくなってはしゃぐ私たちを忘れたくない。
共感することは少し奇跡のワザに近いのかも知れない。私たちは当たり前のようにいろんな当たり前に従っているけれど、それらは長い時間をかけて作り上げられてきた巨大な共感にすぎなくて、そして思ったよりはかない。

私たちは面倒がってしまう。本気になりあうことを不要な消費だと捉えてしまうときすらある。
でも、私は大切にしたい。
共感するために、私たちは根気よく探り合って、時間や労力を尽くして、知恵を働かせて、どんな些細なものでも五感に感じるもの全てを回収していくこと。
どうか私が、効率化や社会のいろんな主義や日々の忙しさに騙されて、より多くに共感するための経験と努力と忍耐を軽んじませんように。

そして自信を持って君に「わかるよ」って言いたい。

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