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私のそばにずっといるのは私自身

自分が自分の人生をうまく生きられないことに対して、自分の中で言い訳を作ることで穏やかに生きられる。
けれど今の私には、自分でしっかり自分を殴ることが必要なのかもしれない、とも考えている。

有効に生きた感覚をつくりだすには、私の場合は単純にやることを増やして日々の隙間をなくせば解決する。
少し昔の私は、生き方に焦らないように、分厚いスケジュール帳をなるべく黒くすることに心を注いだ。
最近はあまり人と約束ができないから、朝から色々なものの手入れをして、掃除をして、自転車で隣の町へ食料を買いに行く。
昼頃の風が心地良いので、チャンスだと思って本を読む。いい風を浴びながら読書をして、干された洗濯物の気分になる。日が暮れたので、一回しか行かなかった美容院のポイントカードを栞の代わりにして読むのをやめる。ゆっくりと次の日の準備に取り掛かる。

小説を読むときは、孤独なときが多い。そういや、歳を重ねるにつれて、孤独のなかに美しさが含まれてきたような気がする。
孤独の時には、色んなものを摂取しようとする。古本屋にふらっと入ってジャケット買いをした本を読んだり、風景みたいな映画をレンタルして観たり、特徴のないざるそばや花の名前のカクテルを召し上がったり。
ごまかして生きているな、という罪悪感のような気持ちも混ざりつつ、孤独を咀嚼しているうちに味は甘くなり、私の中に新しい部品が作られる。

そうやって、自分自身、さみしさとうまく付き合えているつもりだけど、本当にうまく付き合えていたらそもそもさみしいなんて思わないのかもしれない。
どこまでいっても私が一人であることは変わらないこと、それは自分が一番わかっているのに、いつまでも一人だということを認められていないかもしれない。

目に留めていてほしいとか、そんなことを考えるときの自分は自己中心的で、その自意識が、仮想の会衆の目が、私の背筋を伸ばす。
その目が実際に奮闘する私を甘やかしてくれるとわかれば、私は存分に甘える。
一方で、目にも留められていないと感じつつ背筋を伸ばし続けると、突然にむなしくなる。けれどそんな呪縛からは本当は解き放たれていたい。厳密にいうと、本当は自分が意識するにかかわらずいつも見てくれている存在があることを分かっていたい。そしていかなる時もぶれない私でいたい。

自分を愛でるのは十分得意になれた。私によって私を律することがこれからの私には必要だ。

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