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穏やかなときこそ心は柔くなって傷つきやすい

中学校時代はそれなりに楽しかったけれど、ずっと何かの悲しみを自分の臓器のように抱えて生きている気持ちだった。

私はいつもグループ分けで余る人間だ。
新しい環境に入って最初にやんわり決まる友達グループも見事にあぶれてしまい、あまり話したことのなかった別の小学校出身の子や、同じ小学校でもあまり学校に来ていなかった子、同じく私のように行き場のない子のごちゃごちゃグループでつるむことになった。

中学校も、当然かのように荒れていた。
つるむ友達もつるまない同級生も大体そこそこ”素行の悪い”子達ばかりだった。私の口の悪さは地元由来だ。

出自で不遇を受けることは減った。
面白がられることにうまく対応できるようになったけれど、側面を変えようが傷はついていた。
些細なところで人との違いを指摘され、みんなと一緒の人間になりたいからそれを修正した。
その一方で、みんなと全く異なる人間にもなりたかったけれど、それには”ぶっ飛び”具合が全く足りなかった。
違うことに関して過敏になっていたし、何でもハーフを言い訳にしていた。ハーフを消しきれない自分とハーフになりきれない自分がいつも一緒に住んでいて、うっとおしかった。
ハーフでいいねとすらごくたまに言われた。けれど少し敏感になってしまった私は、その言葉の裏地に気づいてしまってげんなりすることもあった。
そして当時から”嫌な意味で”変わり者だったので、そういう意味で疎まれたりもした。

部活動は当時中学校にあるのは珍しかった軽音楽部に入った。
部活の友達は普段の友達グループとは違うキャラクターの人たちばかりで、私にとっては部活の友達の方が居心地よかった。
それまで大塚愛とKAT-TUNぐらいしか音楽を聴いたことのなかった私が、はじめてチャットモンチーを先輩から聴かされた時の衝撃は大きく、私は関西の橋本絵莉子(※チャットモンチーのギターボーカル)になりたい!とその時は強く思った。そしてこの時から、私の生活に音楽は切り離せないものとなった。

当時仲良くなった一個上の部活の先輩は、今でも一番信頼できる先輩の一人だ。良くも悪くも、一番心を預けていたのはその人だった。

家庭環境は最悪で、毎日ひやひや綱渡りしている気分だった。
とうとう離婚することになり、少しずつ引越しをした。
母がボロボロになって行く姿を見て、悔しさと無力感でいっぱいになった。

3年生になって初めて彼氏もできたけど、なんで付き合ったのかなんで別れたのかもわからないぐらい記憶の薄いものだ。(当時の恋人には本当にすまないと思っている)ただ、学校の帰り道、普段自分が通らない道を2人で歩いた記憶だけが鮮明に残っていたりする。
その頃から今までずっと、愛することについての問いを立て続けている気がする。

そして受験シーズンに差し掛かる。
3年生の時に仲良くなったのは勉強を割と真面目にするグループだった。当時気になっていた男の子と話すために勉強を頑張るようになったらちゃんと勉強ができる子になっていた。仲良しの先輩も、救いようのない馬鹿だったのにねって笑っていた。
恐ろしいほど輝く未来を一発逆転するように手に入れたくて、そのために意味わからんほどの受験勉強をした。冬はずっとずっと勉強しかしなかった。

祈るように試験を受けて、身をもがれるような気持ちで結果を待った。
合格した日はとても寒くて、鼻に入る冬の空気が興奮しすぎてかっかする私の体温をバランスよく保ってくれた。

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