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鬼は内。 福は内。。。

仙人 の 様な 人が 
岩手 に 一人 居る。

彼 は 伝える。

「鬼は内。 福は内。」 と

岩手の 名の由来になったのが、三個の 巨大な花崗岩が 立ち並ぶ
盛岡の 三ツ石神社 です。
その縁起は 昔、羅刹という名の 悪い鬼が、
住民に 悪事の限りを 尽くしていたので
捉えて 大石に 縛りつけると、
二度と 悪さは しないし、
二度と この里には やってこない、
ことを 誓ったので その約束のしるしとして、
三ツ石に 手形を押させて 逃がしてやったので 岩手となった のです。

八幡平市では 山賊まつりという 名前のイベントを しています。
鬼や、山賊とは、占領された側からすれば
侵略者に 立ち向かった 郷土の英雄 です。

大和朝廷の 同化政策により 蝦夷(エミシ)は
文化を 奪われてしまいました。
言語と神話・文化を失った 民族は 滅びてしまいます。

こうして、東北の人々は、自分たちの先祖が
誇り高い鬼だった ということを 忘れてしまったのです。

鬼を 外に 追い出して いけません。
心が 分離して 余計に 苦しみます。

鬼を 含んで 超える のです。
ですから 鬼は 内 です。

天河神社(奈良県天川村)の柿崎宮司は 鬼の子孫 です。

天河神社の豆まきは 「鬼は内、福は内」です。
                                     「鬼は内」   清水友邦 より 一部抜粋

鬼とは 何か。。。

災害も ある意味において 
鬼のような 存在として 私達は 認識している。。。

災害も 外へと 追い出したい。
災害は 内には 居れなくない。
(2019年秋、我が家は、水害に遭い、半壊した。
   雨が降れば 身震いがするほど 怖い。。。)

コロナ や 災害 など、
私達を 不安に 陥らせる 出来事に 
どう 向き合えば いいのか。。。

彼は、「災難を逃れる妙法」と題して 述べている。

何が起きてもすべては過ぎ去ります。

思考は今この瞬間にいられません。

今この瞬間に在ると
思考の覆いが取れて
光が差し込みます。

暗闇は光の不在です。
光の中で暗闇は存在することができません。

苦しみや感情を消す必要はありません。
現れては消え、ゆらいでいるのがあらゆる思考、感情です。

恐れや不安に実体はありません。
思考で光を遮った瞬間に
暗闇が現れます。

暗闇で暗闇を消すことはできません。
思考で思考を消すことはできないのです。

思考に逃げないで
あるがままに今ここにいると
次元を超えた理解が生まれます


自我はあるがままの自分を恐れています。

本当の自分を恐れています。

理想化した自分の鎧をつけて
本当の自分を隠し続けています。

心理的な防御の鎧を脱ぎ捨てて
裸でいること
むき出しでいること
あるがままでいること

それが災難をのがるる妙法なのです。

           「災難を逃れる妙法」 清水友邦 より 一部抜粋

えーーーーーーーっ、で ある。

怖いから、をつける。

怖いから、を設ける。

怖いから、自分を 守っている。。。

なのに、「怖い」は、鎧をつけても、壁を設けても、守れない。

それは、事実だ。 歴史が それを 示している。

清水友邦 とり 

だから、

「怖い」と 思う 自分を、そのままに 裸のまま

「怖い」と 思う 自分を、あるがままに 見つめる。。。

それが、最大の 「防御」 で あり 「妙法

 避ける  のでは なく 手放した まま。。。

 追い出す のでは なく 抱き抱えた まま。。。

鬼は内 私の内 に 居る。

内なる鬼を 抱えて 超える とは

今 ここで 鬼と 共に 呼吸を 合わせ 

そのままで いる。。。

それが 内なる 平和 なのかもしれない。。。


#鬼は内 #今ここ #あるがまま #清水友邦  




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