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9月7日 母の誕生日

9月7日、母の誕生日。 昨年の今日、母は病院のベットに居た。 地上での最後の誕生日だった。

誰しも母の最期の誕生日を病院で迎えるとは思ってもみなかった。甘いものが大好きだった母は、ケーキを食べる事もお茶を飲むことも出来ない。

しかし、脱脂綿に水分を含ませたものを吸うことは出来た。少しの会話も出来た。母に何が飲みたいか?と聞くと「ジュースが飲みたい」と言った。病棟のラウンジの自動販売機にはりんごジュースしかなかった。母が何を食べたいかはわかっていた。葡萄と梨、そして和菓子。

父が30年程前に葡萄の苗をもらい、大きなビニールハウスを建て育てた。素人ではあったが毎年見事な巨砲の実が何百と実った。母はその葡萄を食べることも好きであったかが、人に差し上げることはもっと好きだった。

沢山作り、沢山買い、人に差し上げる。人に喜んでもらうのが嬉しかったのだろう。人に褒めてもらうことは、もっと嬉しかったのだろう。
ええかっこしいであり、優しく、見栄っ張りで、誇りをもっていた。

葡萄の実を絞り脱脂綿に含ませて吸わせてあげたかったが、出来なかった。それには理由がある。
ただ、葡萄を潰して汁を絞っても美味しくはない。葡萄は口の中で潰しているうちに甘みとうまみが生まれるのがわかった。
また私がそれをすれば、交代に母を看ている姉も同じようにしなくてはならなくなる。
そして、一番の理由は母が「葡萄が食べたい」と言うことを恐れていたからだ。

母はわかっていたはずだ。
もう二度と自分が育てた葡萄を食べる事が出来ない事を。
そしてそれを食べたいと言うことが負担をかける事もわかっていたはずだ。

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母は看護婦さんに「今日は誕生日ですね。おめでとうございます。何歳ですか?」と聞かれると「ありがとうございます。90歳です」と答えた。
サバを読んだ。母らしい。
看護婦さんが「91歳とは思えないほど、肌が白く、皺がないですね」と言うと「ありがとうございます。葡萄を皆さんにひと房づつ差し上げますので召し上がって下さいね」と、すこしろれつが回らないしゃべり方で答えた。まさしく母だ。母は水分の点滴だけになっても母として生きていた。

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昨年8月26日、日曜日。蒸し暑い午後倒れた。夏バテではないかと思ったが、病院に行きMR,レントゲンを撮ると、急性硬膜下出血であと数時間と言われた。総合病院に救急車で運ばれた。その晩が峠であったが出血が止まり、命をとりとめた。

左半身が不随となったが、意識はあり、痛みもなく、少しの会話もできる。しかし、食べる事も飲むことも出来ない。点滴をしている手は打撲のように腫れ赤黒くなり、すっぱい匂いがした。右半身の感覚がある母は体を拭いて欲しいと言った。熱いタオルで体を拭く。点滴により、体がむくんでいる。

倒れてから2日目、母の手は異常に腫れていた。看護師に伝えると母の左手を汚れた棒を扱うように持ち点滴の針の位置を変えた。怒りがこみ上げた。「母は生きている」という言葉が涙と共にこぼれ出た。

看護婦は無表情で母の左半身を丸太を転がすようにして押して母の着ていたパジャマを脱がせようとした。
「母をものの様に扱うのは辞めて下さい」と言った。
若く、無表情、怒ったように歩く彼女は「はい?」と言って、持っていたタオルをベットの上に投げ置き、その場を立ち去った。

その後、母を、リハビリをして回復する見込みがあり、食事をすることが出来る人達と一緒の病室から、食べる事も飲むことも出来ない人達のいる病棟へと移してもらった。

その次の日、医者は「母の頭にドリルで穴を開け、血の塊を取り、胃ろうを開始したい」と言った。驚いた。
「胃ろうを開始と同時にリハビリをし、リハビリをしたら、介護施設に移動して頂くことになります。胃ろうをしなければ、衰弱して亡くなります。」胃ろうをしても、食べることも飲むことも出来ない。ましてや、自分の家に帰る事は不可能。生涯胃ろうを続け、介護施設で過ごさなければならない。医者は、それをさらりと言った。

私の義理の祖母は112歳まで生きた。長生き、胃ろう、輸液、延命治療、介護施設の現実を義理孫嫁として見た。私には、自分の母だけでなく、介護施設にいる義理の母と病院に通う一人暮らしの義父がいた。

人工ピラミッドが棺桶の形となりつつある今。どれだけ長く生きるかよりも生き生きと死ぬことを考えなければならない現実がある。
姥捨山の時代は終わり、姥を背負うものが山道で倒れる時代が来ている。

家族で悩みに悩んだが、尊厳死を選ぶことを伝えた。
が、「それは尊厳死ではなく、見捨てる行為だ}と医者は言った。
衝撃的な言葉だった。彼の顔は暗く曇り、白い壁と白衣が真っ黒に見えた。

医療現場の現実がある。その総合病院は建って間もない。テレビの撮影にも使われるほどの規模と施設。多くの研修医も抱えている。医療費を得る事、そして研修医を育てなければならない。近隣の介護施設との連携もあろう。介護施設も財政的に苦しい。運営の為には多くの人を受け入れ、経営を継続してゆかなければならない。尊厳死など理想でしかない現実がある。

しかし、私達家族は医者が何と言おうと尊厳死、自然死をえらんだ。
自然死とは、しぜん死であり、じねん死だ。
あるように、そのままに死んでゆく。木が枯れてゆくように死んでゆく。2016年に父はそのように枯れた。見ている方は枯れてゆくのをただ見ているしかない。何かをしたい欲求に駆られる。何も出来ない罪悪感に苦しむ。今、胃ろうをすれば、輸液をすれば、今の苦しみからは逃れられる。
しかし、死に行く体に栄養を入れる事は自然の摂理に反している。
結果として、体は受け入れられない栄養を排除することが出来ず浮腫み、膨れる。本来ならば感覚は麻痺し痛みを感じることがなくなるのに、栄養を与えた為に、感覚が覚醒し、本人は烈しい痛みを味合わなければならない。

アンチエイジングならず、アンチダイイングの弊害だ。
枯れて行くことは、みじめてみすぼらしいように見えるが実は痛みがない。そして、枯れゆく姿は、美しい。まるで赤ん坊のような表情になる。
私はその現実を何度も見た。

蛹が蝶になる時、人が手を加えてならない。
生きるにも死ぬにも、自然(じねん)の力を使い果たすことにより生と死が自然(しぜん)となる。いわゆる人間の使命であり、命の摂理だ。

人は、生と死に手を加えられ、操作することではなく、寄り添う事を求めていると感じる。
死に行く人に寄り添う「助死師」(私的造語)の存在は、人が生き生きと今を生き、死に向かうことへの支えとなる。

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母は昨年の今日、りんごジュースを飲み、美味しいと言った。そして「何か聞きたい音楽がある?」と聞くと母は答えた。
「シューベルトの未完成交響曲」 私は笑った。
これが母なのだ。母は美空ひばりのファンでありながらも、隣のベットの見舞いの人に聞かれていることに気づいているのだ。母は健在だった。

すぐに携帯で母に未完成交響曲と美空ひばりの「河の流れのように」をダウンロードしイヤホンで聞かせた。
母は自分の青春時代を象徴する「未完成交響曲」を聞き、微笑んだ。
その笑顔は赤子のように透き通り美しかった。

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そして今日、また、母の誕生日を迎えた。
去年よりも母を近く感じている。母は今、私の中に生きて、微笑んでいる。さあ、母と共に昼ご飯をつくろう。
そしてシューベルトの未完成交響曲を聞き今日一日を母と過ごしてみたい。

9/7/2020 11:55

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