銀河英雄伝説を引き合いに出して、十二国記を語る📖両方読んでて、なおかつ、頭沸いてる人向け

「ラインハルトか、トリューニヒトか?」(清廉な専制君主制か、腐敗した民主主義か?)といった質問に、「死なないラインハルトがいたらどうか?」と提示してみたくなったのが、小野主上の十二国記、発想の源であると云われている。(蓬莱の伝記より)

天帝の箱庭のような、十二国記の世界。
それはまるで、ロールプレイングゲームのよう。(ゲームを全くしないクセに、雰囲気で言ってます)
天は『王』というプレーヤーを選び、自分の選んだプレーヤーには『天の配剤』としてチャンスになるような要素を用意できるが、王を飛び越して、悪役を排除したり、民を救ったりは出来ない。
すべては選んだ王の『ひととなり』次第。言い換えれば『王気、王の器』が試されている。

では、十二国記の世界での『王の器』とは、どこで見極められてるのか?

王たちは登極してすぐ、試練となる事件が起きる。

事件を乗り越えて王であり続けられるかどうか?
私は、その第一段階に『麒麟を殺されずに守れるかどうか?』が試されているように思う。
陽子にしろ、尚隆にしろ。(戴に関しては、驍宗の替わりにそれを李斉が成し遂げたが、李斉は驍宗のポリシーを継ぐものだから、表裏一体と見なしている。)

これを銀英伝にトレースしてみるならば『キルヒアイスを殺されずに、二人三脚で事を進められるラインハルト』ルート、だとイメージしている。つまりラインハルトが王で、キルヒアイスが麒麟ね。

じゃあ『どうすればキルヒアイスが殺されずに済んだのか?』というと、『オーベルシュタインを登用しなければ良かった』という話じゃないかと。

驍宗と阿選を比べた場合、阿選がダメになっていったターニングポイントに、オーベルシュタイン味を感じる。

汚れ仕事を烏コウに任せたのは「aにはaの、bにはbの仕事…云々」を思い起こさせるし、反民を場所ごと焼き払うのはヴェスターランドの虐殺を彷彿させる。

驍宗が『王の器』であるのは「民が犠牲になるのは例外なく否」という姿勢で、そこを天に量られていたのだろう。

だから、定摂らの救いを断ったとき、天の雲行きが怪しくなり、彦衛が密告する事態になったように思える。(李斉は「泰麒と驍宗を失うまい」と思うときだけ、判断を間違えるようだ)

つまり驍宗というのは『If!ヴェスターランドの虐殺を止め、キルヒアイスを失わなかったラインハルト』だ、そんな風に受け止めている。

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