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書くことは、ただただ楽しい

書きたい!欲が突然発生したのは、小学生のときだった。何かを読んだか、観たかして、感動して、この感動を書きたいと強く強く思った。感想文として、一生懸命書いた。頭の中にある感動を書いて書いて書きまくった。その、わたしにとってすごい力作を担任の先生に見せた。先生の反応は「これは、感想じゃなくてあらすじです」。以上。ちーん。学校の賑やかな休み時間、黒板の前、教卓の横。そっけなく突っ返された作文用紙を、その後どうしたんだっけ。それ以降、書いたことを見せるのが恥ずかしくなった。あらすじなるものを、そのときはじめて認識した。ああ世の中には「文章」があるのではなくて、あらすじとか、感想文とか、いろいろなカテゴリがあって、その総称が文章であるだけなのだとはじめて知った。それぞれに書き方や作法があり、思うままに書くなどもってのほかなのか。と認識した。それまでも散々授業などでやったんだろうが、それまで特別書きたいと思ってなかったから理解できなかったらしい。このとき、社会というものを認識した気もする。このときから、書いたものを見られるのは恥ずかしい。わたしの中にあるものを細かなルールのある社会に出す恥ずかしさである。わたしが感想文とはなにかをわきまえずに感想のようなものを書いてしまったように、この社会で理解されているそもそもの問いを、わたしが理解できてるないような気がするからだ。感想文とはなんぞや、を学ぶことを怠って書き始めてしまうような人間である。求められてること、その場にふさわしいことがわからない。どんなふうに書いても、違う気がする。ここに書かなきゃいけないことを、わたしは書けない気がするのだ。何を書いても、こういうことじゃないんだよね、という声が聞こえてくる。思ってることを書くのではなくて、求められてることを書かなきゃいけない。書かれるべきことは概ね決まっている。それを読み取って書けるかが問われている。わたしに正解は書けない。だから、匿名で書く。だってほんとは、書きたいから。思ってること、考えてることが常に山のようにあって、浮かんでは消えていくそれらを書きたいのです。誰かが気まぐれに読んでくれたらいい。それは別に、知らない人でいい。むしろ、知らない人がいい。わたしを、知らない人がいい。わたしの、知らない人がいい。わたし自身の評価に直接蓄積されなくても、誰かがいいと思ってくれたら、すんごくうれしい。うれしいのだ。このかんじ、わかってくれる人いる!っていう、このかんじ、伝わった!っていう、そういうよろこびがある。こんとき先生、とりあえず褒めてくれたらよかったな、と今でも思う。わたしが何かに感動して、それを書きたいと思ったその心意気を、行動を。たとえあらすじであっても、本来の感想文の書き方とは違っていても、よく書いたと言ってくれたらよかった。わたしが先生にとって良い子じゃなくても、仕事なんだから、そうしてくれればよかったのに。そしたらまた何かを書いて、誰かに見せたかもしれない。それを続けて、自信になったかもしれない。なんてね。まあ無理か、人間だもんね。わかります。
だから、30年後の未来のわたしが褒めてあげよう。あのとき恥ずかしい思いをしたけど、書きたいと思って書いたことは、良かったに決まっている。作文用紙を引っ張り出したわたし、グッジョブ。あのとき、一生懸命書いて、よし、書けた!を、書いて楽しい!を体験してくれて、ありがとね。こうして誰もわたしを知らない空間に、こっそり書く楽しみを残してくれてありがとね。

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