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コンテンツはセルフイメージの補完装置。人間は絶望の中の希望である。

先日、NewsPicsで宮台真司さんが、「鬼滅の刃が現代人に問うこと」というタイトルでお話しされていました。

その内容がもう五臓六腑に落ちまくったので、備忘録のために残しておくことにしました。

あ、以下ただの殴り書留ですので、あしからず。。

没入しているコンテンツは自己を補完する装置

もともと芸能や大衆文化は、時代ごとに決まった「型」があると知られている。

ギリシャ叙事詩といえば、紀元前8世紀、ギリシャ悲劇ならば、紀元前5世紀。

日本ではATGというアバンギャルド系ブームが60年代に、日活ロマンポルノは70年代にブームを迎えた。

60年代は経済的な属性が表現のパターンを決めていた。

この時は、下部構造に経済的な枠組みがあり、
その上に、文化・政治・芸術・大衆芸能という上部構造がのっかっているという考え方が一般的だった。

都市と農村の格差、農村の貧困があり、
農村からでてきた若者は、会社員=サラリーマンというコマになる。
コマの予備軍を作る機関として大学がある。
そのような構造の中で、
ホワイトカラーからブルーカラーか。方言があるかないか。
という属性がコンテンツをきめており、若者の阻害が描かれた時代だった。

70年代になってこれが変わり
人格のパターンが享受するメディアを決めるようになった。

マル金・マル貧
ナンパ系・オタク系
ネアカ・ネクラ

対人関係や人格、モテるモテないに対しコンプレックスがあるかないかがコンテンツを決め明確に分類されていった。

これは「自己のホメオタシス」=コンテンツが自己を補完する装置と考えている。

なぜなら、没入しているコンテンツと自意識は切っても切れない。
社会のシステムは人格のシステムであり、
全ての行動はセルフイメージに規定されている。

例えば小学生の女子は「りぼん」か「なかよし」を読む。
中高生になると、ポジ系の女子は「別マ」を読む。
さらに、ポジ系で恋愛に興味のある女子は、リアルな恋愛体験をし漫画から離れていく。
ポジ系でモテるが恋愛に興味が薄い女子は「別マ」に残る。
一方、ネガ系女子は、白泉社系の漫画を読む。

というように人格によって選ぶコンテンツが分岐していく。

女の子は「共感とサポート」
男の子は少年ジャンプの系列というものがあって、
「敵が現れる、倒す」という価値基準がみられる。

煉獄杏寿郎の倫理は初期ギリシャ的である

そこで「鬼滅の刃」。

現代には、
損得野郎 と  損得を超えた人間
利己心人間 と 利他心人間がいる。

日本は機械的なパターンの集積と没人格によって
損得野郎、利己心まみれのクズが蔓延する社会となった。

その中で人々は諦めとともに、あるべき人間の在り方をみたいという欲求
も持っている。

そもそも人間は、類人猿のなかで最も社会性が高い。

社会で生き残るためには損得勘定が必要になっていく。
そして適応していくと、どんなに有能でも入れ替え可能なパーツになっていく。

昔は地域や家族という「社会システム」の外があったが、それが消えていくとシステムの外側をもたない存在がでてくる。
それが”鬼になることの自然さ”なのだ。

人間には未来がない。
鬼は強いし怪我をしても再生する。死なない。
鬼になるほうが合理的。

今の社会のメタファーそのものである。
まともであると生き残れない社会システムという認識が広がっているのだ。

映画版の後半は煉獄杏寿郎 が死ぬとわかって戦い続ける。

敵に「死にたくなけへば鬼になれ」と誘われ続けるが
「私とお前は価値基準が違う、死んでも鬼にならない」と言い続ける。

何かをすればは良いことが起きる、何かをすれば悪いことが起きる。
という、条件プログラムでは動かない。
そう振る舞いたいから振る舞う。
それ以外にはないという在り方。 
自分の倫理は、自分の内側からやってくる命令なのだ。

これを私は初期ギリシャ的とよんでいる。

紀元前12世紀から8世紀は、暗黒の400年といわれていた。
殺人・強盗・強姦・放火が起こり、ギリシャ神話の母体を提供するような残酷な期間であった。

そこで人々は、善人は早死にするしこの社会で善行をしても報われることないと学んだ。

社会という荒野を仲間と共に生きる

紀元前6世紀頃、エジプトでヤハウェ信仰が起こり、
「悪い事が起こるのは神の怒りから、神の怒りは神の言葉に逆らう人がいるから」という発想が生まれたが、ギリシャ人は、これを敬遠する。

前述のように、救われると思って善行をしても救いは約束されない。
世界はデタラメだからだ。

これは煉獄の考え方と通じる。

このまま戦ったら負けるかもしれない。
それがどうした。
自分の内から湧き上がる力に対して前に進むだけだ。

実際そういう人間が戦争に強かった。

古代ギリシャ時代、重装歩兵が甲冑を着て集団密集戦法で斬り合うファランクスという陣形があった。

その中で一際強いのは、煉獄のような自分の内から湧き上がる行動に従う命知らずの人間だった。英雄であった。

社会をマクロに生きる段階はもう過ぎた。
暗い時代。ホープレスの時代。

社会という荒野を仲間と生きる。
社会はどうあれ、自分は仲間とともに生きて仲間を守る

そういう生き方しかない。
絶望の中の希望。人間はそういう存在であり得るのだ。

そしてむしろ、社会が悪くなればなるほど人が輝く。
その図式が鬼滅の刃に他ならない。

(もう少しあったけど一応おわり)

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