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花散里

 紫の上が亡くなってからというもの、すっかり気落ちして着るものや身なりさえかまわなくなったらしい。

 光る君の女房から聞いたのか、こちらで召し使っているものたちがそんなうわさ話をしていました。それまでは紫の上が光る君の衣裳を用意していたのですから、衣替えなどもおぼつかなくみすぼらしい恰好をしているのかもしれません。ほら、初老の男の人なんてそんなものでしょう? それまで妻が身の回りの世話をすべてやいていたものだから、妻に急に死なれたり、入院されたりすると、やれ靴下がない、シャツはどこへ行った、冬物はどこにしまってあるんだ、などと大騒ぎしだすんです。光る君にはあまたの女房たちが使えているのですから、誰かが着るものの世話くらいしてやったらいいのに、と思わないこともありませんが、きっと差し出がましいと思って誰も何も言えないのでしょう。

 仕方がないので、私が衣裳一式をあつらえることにしました。これでも若い時はおしゃれに気を遣う方だったし、周りから素敵なものを着ているねと褒められることも結構あったんです。今は私もすっかりおばあちゃんになって髪もグレーヘアだし、しみもいっぱい浮き出ているし顔がたるんでくるし、年を取ったら派手な赤いものでも着ればよいのに、などと周りからは言われるのですが、そういうのは見苦しい、と自分の中の美意識が訴えるのでできるだけ目立たない色の着物を来て、とにかく清潔に、むさくるしくないようにということが身だしなみのプライオリティNO.1になっているのです。

 そう、年を取ったらむさくるしくしない、というのが第一です。光る君だって、そりゃ若い頃は背も高いししゅっとしてたし素敵だったけれど、今や52歳。半年ほど前に突然ふらりとここへいらっしゃった時、私、自分のことを棚に上げて「光る君も老けたなぁ」とびっくりしてしまったほどですから、今ではもっと老け込んでしまっているのでしょう。そんな初老の男が、衣替えもままならずひどい服装をしているなんて、かつては夫婦関係にあった私としてはやはり気になります。

 若い頃よりは2サイズくらい大きくなった光る君のお腹周りに合わせて着物をあつらえ、なるべくすっきり見えるように、そして紫の上の喪に服していることをさりげなく周囲に分かってもらえるような、控えめな色柄の衣裳を数組用意しました。もちろん真新しい下着も。下着だけは毎日変えてくださいねと手紙に書いておきたいくらいでしたが、それはやめておきました。初老のむさくるしい男にだってプライドはあるでしょうし、私の今の何不自由ない暮らしは光る君の経済力のおかげで成り立っているのですから。

 光る君からはお礼状が届きました。もしこちらに来られたらどうしよう、と内心びくびくしていたので、ほっと安堵のため息をつきました。まあきっと、こちらに寄ったところでどうせ紫の上が恋しいだの、世界が墨色に見えるだの、めそめそ泣きごとを言うだけでしょうが、ひょんなことから「泊まりたい」と言い出すとも限りません。今更性交渉をしたいと光る君が言い出すとは思えませんが、もう一緒の部屋に寝るのもいや。寝る時ぐらい、自分が好きなように、好きな布団でぬくぬくと、寝付くまで好きな本を読んでいたいのです。夫が隣にいると、ゆっくり寝られないんです。 

 そう、私たちの間ではもう十五年ほど前から性交渉がなくなっていますが、それで私は本当に良かったと思っているのです。もともとセックスが好きかと言われれば、そりゃ最初は誰だってお互いの身体に夢中になる時期があると思うのですが(3か月くらい?)、それを過ぎてしまうともう眠気の方が勝つというか、読書とかお裁縫とか、自分の好きなことをしていたいと思ってしまうんです。友人たちの中には「夫とずっとセックスレスで耐えられない。ほかに愛人を作ろうかと思う」という人もいるのですが、私には理解できません。セックスのない人生のほうが、よほど穏やかだし心も安定すると思います。しかも光る君という人は、そりゃあ若い時は美しかったけれどそのせいで女から甘やかされたんでしょう、こっちのことなどお構いなしにぐいぐい来るだけで、びっくりするくらい乱暴なことをしたりするし、何も分かってないと思います。ものすごく退屈なセックスなんですもの。一度退屈すぎて、何回腰を動かすのか数えてみたら189回でした。そう、退屈なのに遅漏。最悪のパターンです。

 それで、35を過ぎたあたりに「私はもうおばあちゃんですもの、お褥すべりしますね」と床を別にしてみたところ、その頃は向こうもほかにたくさん女がいたのでしょう、あっさり許してくれてほっとしたんです。それでも「手を繋いで寝よう」とかいうから、ぞっとしていたんですけどね。フランスの女流作家が、私の気持ちを勝手に推し図って『源氏の君の最後の恋』とかいう短編を書いたらしいんですけど、全然当たってませんね。だいたいフランス人とは体のつくりも体力もものの考え方も違うのに、私の本当の気持ちなんて分かるわけないです。

 それにつけても思うのは、私にもう少し経済的余裕があれば、光る君とはさっさと卒婚していたのに、ということです。姉が入内する時に、父はあらかたの財産を使ってしまったようで、私に残された遺産といったら、え、これっぽっち? というほどのものでした。ですから光る君が私に興味を示してきたときには、姉から「女の幸せは結婚! とにかく経済的にしっかりしている男がいちばん! 光る君ならその点問題なし!」と猛プッシュされて、私もその頃ちょうどつきあっている人もいなかったし、まあそうかな……と流されるような感じで関係が始まってしまいました。もちろん最初の頃は、世の中で評判の美男子を彼氏にできてひゃっほー、という気持ちもないこともなかったのですが。でも、その後須磨に蟄居したりするし、その間私のことは忘れてるの? っていうほど何の音沙汰もなかったし、その間は姉の禄にすがることしかできず、とってもみじめでした。

 本当は、宮仕えでもなんでもして、自分の力で生きていきたかった。けれどもなまじっか身分が高く、姉が女御でもありますし、働くなんて外聞が悪い、と許してもらえなかったのです。だから、光る君の経済力にすがるしかなかった。別に子どもなんて好きでもないのに、夕霧の君、玉鬘の君とふたりも子どもの世話を押し付けられちゃったりしてうんざりでしたよ。まあもちろん、血がつながっていなくても「お母様」と甘えてこらえると、かわいい、と思わないこともありませんでしたけれど。

 それに光る君、ひいてはお世話を仰せつかった夕霧の君のお金のおかげで、私は今も好きな本を取り寄せ、一流の職人が織った布を買い、小ざっぱりとした暮らしができています。お金はいくらあっても困らない。そして光る君がこちらに寄り付かないなら、こんな気を遣わない楽な生活はありません。

 どうかこのまま、私のことは忘れてそっとしておいてほしい。衣裳くらいは面倒みるから。というのが私の偽らざる気持ちです。

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