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Bitter Cold -8.Sweet Bitter Cold

ドキリと心臓が一際高鳴る。

「そんな事ないよ」

私は動揺していた。

彼は私の右手首を強く掴んだまま、空いてる手を私の左手に重ねた。
そして指を絡めて握り締める。

私の喉から漏れた吐息を聞き逃さなかったかのように、彼は私を強く抱きしめた。

怖かった。
ここで理性が切れたら、その先の私はどうなるのかわからない。
真っ暗で、 何も見えない。

「怖い」私は思わず声にした。 
彼は ”何が?” と静かに尋ねる。

私は彼から離れようとしたが、 私の背中で両腕を組んでいたので離れられなかった。
「離して」
きつい言い方に らないように、笑って言ったつもりだった。
けれど彼は私の頭を自分の胸に押さえつけるように抱え込んだ。

諦めて、力を抜いた。
彼の身体は、すごく暖かかった。
そのまま、少し眠りについた。
低いエンジンの回転音と彼の鼓動と、外を包む波の音を感じながら。

薄く目を開けると、窓が曇っていたが空がもう白んできているのがわかった。
私が離れると彼も目を覚ました。

「何時になったの?」

眠そうな目をこすりながら彼は訊いた。

「もう、5時40分。 もうすぐだよね」

うん、と小さく頷いて、彼はひとつ伸びをした。

「身体が痛いな」

私は軽く頷いただけで彼と目を合わさないように窓の水滴をふき取り、外に目をやった。
夕べはあんなに闇だったのに、空は水平線から段々白くなり、海は深い深い群青色をたたえている。

薄く窓を開けると、凍るような空気がひゅうと流れ込んできた。

「うわぁ、寒い!」

思わず叫んだ私に、隣で彼は笑っている。

「だって2月だよ。1年で一番寒い時期の一番寒い時間帯じゃないか」
「そうだけど…。でも私、冬って好きよ」
「お前は好きなものがたくさんあって幸せだな」

彼はそう言って笑う。
「そうかな」
私は顔を逸らしたまま返事をした。
「その中でも一番好きなものはなに?」

彼がそう訊いてきたので、えぇと、と考えるふりをしたけれど、真っ先に浮かんだのはたったひとつ。

"あなただよ"

外へ出て、堤防の低い場所まで歩く。
もう明けの明星も消える。
滑走路には離陸体制に入っている飛行機が見える。

「こっちにおいでよ」

彼は離れた所へ立っていた私を呼んだ。
躊躇う私に、彼の方が近づいて来て後ろから包み込むように抱き締めた。

「寒いんじゃないの?」
頭の上で彼の声が低く響く。
「寒い」
私は涙声になるのを必死にこらえた。

「じゃあ我慢して立ってる事ないのに」

この温もりが、今日で最後…?

この優しい声も大きく包んでくれる腕も、温かい唇も、そして大好きなきれいな瞳も。
もちろん、彼から離れることを決めたのは私だけど。

明日から先の毎日は、もうずっと彼なしで生きて行かなければならないのに。

「なんか素直じゃないな」

彼の腕に力が入る。

「…結婚すること、聞いた」

彼は身を固くした。 何と言葉を継いでいいかわからない。

「…ごめん」
「やだ、何で謝るの?」

笑って言ったつもりだった。
でも、顎まで涙の雫がこぼれていた。

「ちゃんと話さないといけないと思っていたんだけど」

彼は静かに言った。

「おめでとうを言わなきゃね」

こっちもちゃんと言わなきゃいけないのに、泣き笑いする。

「ね、俺が一番好きなものって何だか、知ってる?」

突然、彼は訊いた。
さっきそんな話もしていたが、どうして今、と思った。

私はしゃくりを上げながら黙って彼の瞳を見つめた。
彼は私の頬をつまむ。

彼の笑顔が朝日に溶ける。
一瞬時が止まったかのような錯覚を感じた。

彼の唇が動く。

好きだよ
参っちゃうくらい
それがすごく哀しい

その時、爆音が響き渡った。
振り返ると一番の飛行機が滑走路を走るのが見えた。

私は流れる涙もそのままに光の方を見た。
朝日に輝いて光る海の上、ふわりと機体が空へ浮かぶ。

言葉もなく私たちは頭上をかすめ飛んでいく飛行機を見上げていた。

「…き…」

私の言葉は轟音に消され、彼が口元に耳を寄せた。
私は顔中を涙でぐしゃぐしゃにしていた。

「好き…」

思えば彼にこんなに面と向かって真っ直ぐに ”好き” なんて言った事が無かったことに気づく。 
目が好きだとか、部分的な事を褒めたことはあったけれど。

「あなたが、 好き」

彼の胸にしがみついて、半分叫んでいた。

「好き、好き。 どうしょうもないくらい好き。本当はすごく寂しかった。いつもいつも寂しかった。側にいてくれるだけでいいって思っていたけれど、やっぱり寂しかった。いつかこんな日が来ることもわかっていたけれど、辛くて仕方ない」

私の計画は失敗してしまった。
さよならを言わなければいけないのに、告白をするなんて。

黙って彼は私をきつく抱き締める。

「私、愛人でもいい。 だから、あなたを失いたくない」
「お前はまだ若いのに、そんな泥沼へはめるわけにはいかない。でも…」

彼は続ける。

「お前を離すのは、俺も辛い。我儘だってわかってるけど」

朝日が私たちを白く照らす。

「俺がその我儘を通したら、お前に今よりもっと辛い想いをさせる事になる」
「それでも…」

私は彼の胸から顔を離して、彼の瞳を見つめた。朝日に白く輝く彼の顔。

「愛人っていう肩書きがつくだけ、 今までよりも自分の居場所がはっきりする」

お互いの震える唇を重ねた。 
今まで重なってきた胸の痛みが引いていくのを感じながら。

「俺は、最低な男だな。 間違いなく地獄へ落ちるよな」

私は首を横に振る。

「道連れになっちゃうな」
「多分、今までの寂しさや切なさよりは、ずっとずっとましになるから」

私は笑ってみせた。 自分でも驚くほど穏やかな気持ちで。

彼はポケットから何かを取り出すと、堤防へ2,3歩寄って、それを海に投げた。
それは小さなものだったけれど、 太陽に照らされ一瞬光って、弧を描いて海へ落ちていった。
小さな水の輪を描き、 泡と共に光の届くことのない暗い海の底へ沈んでいった。

私は尋ねた。

「何を投げたの?」

彼は静かに答えた。

「きれいで、醜いもの」


Sweet Bitter Cold.




END

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