見出し画像

【シリーズ連載・Guilty】Unbalance #12

~紗都香


夫がジャカルタへ旅立った9月の終わり。まだ真夏の名残がじっとりと肌にまとわりつく月曜の夜、いつものバーに行った。外とは打って変わって、地下の静かでひんやりとした空気が心地よい。

「ギムレットをお願い」

席に着くと同時に頼むそれは、定番の私の1杯目だ。私が常連だからといって、黙っていても出てくるわけではない。ここのバーテンダーはどのお客さんに対しても同じような距離感を保っている。そこがとても清々しい。

夏休み、私は嫌々ながら夫と共にカナダを旅した。込み入った話もこの先の話も、こちらから振っても発展はせず『まぁもう少し時間をかけようや。今はせっかくせせこま・・・・した日本を離れて大自然の恩恵を受けているのだから、心身空っぽにしよう』と言って、取り合わなかった。

今、私は再び一人になり、夫は年末まで戻らない予定だが、もう今までのようには過ごせない。
同時に、私の居場所を考えている。ここである必要があるのか。これからどうして行けば良いのか…不安が襲う。
そして今まで夫の不在時に、どれだけ狂乱じみた日々を送っていたのかと思うと、バカバカしくもなる。もう若くはないのに、一体何をしていたというのだろう。

いえ、若さを失っていくことをありありと実感する日々だったからこそ、すがりたかったのだ。まだまだ私は若い、まだ求められる、求めれば答えてくれる人がこんなにいるのだ、と…。

そんな中現れた遼太郎くんは、光り輝いていた。
けれど、あんなに激しく燃え上がったのに、夏を迎える前に、まさに花火のごとく燃え尽きた。

彼は7月末に担当を離れる旨の挨拶に来て以来、姿を見せる事はなかった。その挨拶だって、定例会の冒頭でほんの一言二言発して、途中退席し呆気なくて帰ってしまった。久しぶりの彼はやけに精悍で、眩しく見えた。
私だけがその場で焦がれていたのかと思うと、虚しさが募る。

結果としては正しかったはずだ。
遼太郎くんは、何もかも捨てて寄り添うような相手ではない。ただ、危険な魅力を持っていただけ。まさに火遊びして火傷をしただけ。

それでも私は新しいわだかまりを抱えた。
夫に対する不信感だ。
遼太郎くんの一件で、思いもよらなかった一面を見た。彼を痛めつけた、どのように?
ただ、何もわからなかった。誰も教えてはくれなかった。

今の私の状態を思うと、遼太郎くんの存在は殊更大きい。夫と結婚を決めた時よりも、人生のターニングポイントを強く感じる。


グラスの白い液体をぼんやり眺めながら考えていると、思いがけない香りにハッと顔を上げた。

“Jazz Club” がふわりと舞ったのだった。


隣の席に着いたのは、紛れもない遼太郎くんだった。

彼はバーテンダーに「ギムレット」と告げた。私は声も上げられず彼の顔を凝視する。
程なくして彼の前にコースターとグラスが置かれた。

「どうしてここに」

ようやく声に出すと、彼は内ポケットから折りたたまれた紙ナプキンを取り出した。いつか私がバーテンダーに託したメモ書きだ。
そして「よりを戻しに来たわけではありませんよ」と口角を上げた。

「それ、受け取っていたの?」
「つい最近ですよ。だから今日来たんです。それに」
「それに?」
「お話をするなら今が最適かと」
「最適?」
「旦那さんはまた旅立ち、加藤さんも今日は不在だ。だから今が最適。まぁプロの探偵でも雇われていたら話は別ですが、この店は安全のようなんでね」

呆気にとられた。遼太郎くんもどこまで知っているのか。

「どうしてそれを…」
「目には目を、とお伝えしたと思います」

そしてグラスを軽く掲げた。「とりあえず、お疲れ様です」

彼の喉仏が上下し、私が飲んでいるものと同じものがそこを通っているのだと不思議な気持ちで見ていた。

「よりを戻しに来たわけではないのなら、何故? あなたはそこまで私に思い入れてたとは思えない。だから今、あなたがここにいることすら驚いているのよ」
「旦那さんのことで、紗都香さんにお伝えしておいた方が良いだろうと思うことがあったので」
「…? いえ、それであれば私もずっと気になっていたの。夫と会ったんでしょう。そのこと? 何をされたの?」
「あなたのことを思って、全て話します。少々衝撃が強いかもしれません。僕はこういう時あまり忖度出来なくて、加減がわからないのです。ご容赦ください」

彼は声を潜めて言った。意を決して私は頷く。

「前担当者の加藤さんがあなたの旦那さんの知り合いだった事はご存知ですね? 彼は僕が紗都香さんと2人でいるところを目撃した。勘が働いたのでしょう。僕らが2人して主不在の家に入っていったところまで確認した。全く、暇人はくだらない事をするものです」
「あなたも知っていたの…」
「しばらくしてとある週末に、旦那さんが加藤さんと一緒に僕に接触してきました。僕のプロフィールまでご丁寧に調べて。僕の稼ぎの足元を見るような金額を要求して来ました」
「待って。夫はあなたにお金なんて要求していないって言っていたわ。あんな若造から取るつもりないと…」
「金が欲しかったのは加藤さんの方でしょう。ですがなんやかんやと話を重ねるうち、旦那さんは途中で気が変わったようです」
「気が変わった?」
「つかぬこと訊きますけど、旦那さん、バイセクシャルですか?」

耳を疑った。

「え? どういうこと?」

何を話しているのだろう、とまだこの時はぼんやりしていた。いや、受け付けようとせず無意識に理解を拒んでいたのかもしれない。

「やはりご存じなかったですか。彼は僕のことが気に入ったようです。2度目のコンタクトがすぐにありました。今度は旦那さん一人でした。素直に出て行った僕も僕ですが。どうやら気に入られたのは人間性だけではなかった。“金は要らない。大人しくすれば全て有耶無耶にしてやる” と言われました。失笑ものですよ」

思い出す。
夫が『男の僕が見たって美しい顔してるくせに男気があってさ、むしろなんか気に入っちゃったよ』と話していたことを。
もちろん、全く別の意味で受け止めていた。気に入ったというのは皮肉だと。

「旦那さん、スマートに見えてパワーありますね。いきなり頬を思いっきり叩かれました。ふらついた僕の胸ぐらを掴むと、押し倒して馬乗りになったんです。僕なんかひとたまりもない」

息を呑み、言葉を失くした。

「それに僕に似てサディスティックな方だ。片手で首を絞めてきて "きれいな顔が苦しんで歪むのを見ると興奮するよ" なんて言うんですよ。もう片方の手で僕の下半身を弄り回しながら」

耳を塞ぎたくなる。しかし彼は構わず続ける。

「手が離れると今度は首に食らいついてきました。その隙になんとか弾き飛ばして逃れる事ができた。旦那さんはそれでも笑って "お前も興奮しただろう?" なんて言うんです。なかなかの衝撃でしたよ。“君の将来を潰されたくなかったら大人しくされるがままにしなさいよ” と言うので、俺の将来なんかいくらでも潰すがいい、お前の手玉には乗らない、お前如きに潰されたって俺はすぐに立て直す、と唾を吐いてやりました」
「そんなことを…あの人…この後もあなたを苦しめるつもりなの…」
「ですが僕も弱味を握りました。お前がバイだと九園さんは知っているのかと尋ねると、一瞬顔をしかめたのです。“お前が俺に何をしたのか彼女に話す” と言うと、また顔を張られました」

痛々しい話に手を口にやる。

「それにイスラム圏では同性愛はタブーです。旦那さんの仕事先はイスラム圏が多いですよね? バレたら仕事に多少は影響が出るでしょう。そして家庭を持っていないと人格を疑われるでしょう。だから体裁を保つ必要がある」

茫然と遼太郎くんの顔を見つめる。

"体裁を保つ必要がある" …。
前妻のとの離婚の原因は『よくある、価値観のすれ違いってやつだ』と聞いた事がある。興味もないから深く詮索などしなかった。

夫とのセックスは、確かに結婚当初から頻度は少ない。年齢的にもそんなものなのだと思っていた。私は他で満足出来るから、それも特段どうとも思わなかった。むしろさっぱり出来て良かった。

体裁を保つための結婚…?

そしてもう一つ大きな疑惑が頭をもたげる。
なぜ遼太郎くんだけお咎めが来たのかという問題。
それは…夫の好みの男性だった…から…?

「遼太郎くん…夫はあなたが目的で…?」

震える私の声に彼も眉を潜め、一考した。

「執拗に調べて、"コイツはいける" と思われたってことですか」

そう言って遼太郎くんは吐く真似をした。

「わからない…憶測よ。でも…なんとなく…」
「…全く、紗都香さんは本当に "被害者" なわけか」
「それ…遼太郎くんが私のことを弄んだゆえの被害者だと…夫が話していたけれど」
「それもありますが、こんな旦那を持った紗都香さんは被害者でしょう。あなたはよく旦那さんの話をしましたが、バイセクシャルでサディスティックな一面がある事を知っているとは思えなかった。裏の顔なのであれば、被害者です」

遼太郎くんはギムレットを飲み干し、ジンロックに切り替えた。







#13へつづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?