見出し画像

【連載小説】奴隷と女神 #41

年が明け、1月20日。
その日がついにやってきた。

夕方、響介さんからたった一言のメッセージ。

離婚、成立したよ

ちょうど会社からの帰り道だった。

スマホを持つ手が震え、咄嗟に涙ぐんでしまう。
『電話で話せますか』と返信を送ったら『10分待って』と帰ってきた。

メトロを途中で降りて、ホームのベンチで10分待った。

お待たせ・・・・

複数の意味を持つその言葉にどう答えていいかわからなくなる。

「…会えませんか」

我慢は限界だった。たった1年だったかもしれない。
されど1年。
近くにいるのに触れ合うことが出来ずにいた、この1年。

『今どこにいるの?』
「芝公園駅のホームです」
『東京タワーの近くか。じゃあせっかくだから東京タワーに行ってみるか』
「東京タワー。私、昇ったことないです」

そういうと響介さんは電話の向こうで笑って『じゃあ昇ろう』と言った。

* * *

駅を出ると乾いた寒風が吹きすさんだ。空は澄んでいるが都心では星は街の灯にかき消されてしまう。
芝公園を横切り東京タワーへ向かった。

もみじ谷の木々は全ての葉を落とし、芽吹く春をじっと待っているようだった。
坂道を逸る気持ちを抑えきれずに昇っていく。

響介さんと恋仲になって、1年半が経とうとしていた。

思えばこの1年半で180度、いやもっと、世界が変わったことになる。

まさか、会社の部長と。
まさか、恋に落ちて。
しかも既婚者で。
その半年後には離婚すると言い出して。

そして今。

本当に離婚が成立して、堂々としていられるようになるなんて。

「夢じゃない…よね?」

明るい夜空に向かって言ってみる。冬の星座が言葉を吸い上げてしまうかのよう。

やがて東京タワーのたもとに到着する。どこにいればいいかわからなかったので、入場券売場の近くをうろうろと歩いた。

学生のグループ、カップルなど、思いのほか人が多かった。みんながスカイツリーに行くわけではないのだと思った。

辺りの宵闇が深くなった頃、愛しい人が姿を表した。
黒いロングのチェスターコートに薄いグレのタートルセーター、それにジーンズ姿だった。
私服…あぁ今日は有給だったのかな。

小桃李ことり

その声が、呼び方が、直接私の鼓膜を震えさせる。

「響介さん…」

あと1メートル、というところで響介さんは立ち止まった。
私の顔に「?」が浮かんだ頃、彼は破顔し、両腕を広げた。

それを見てもう、一気に感情の波が押し寄せ涙となって一気に私の体外へ溢れ出した。

「響介…!!!」

私の方から駆け寄って、彼の胸の中に飛び込んだ。

「外で待ってたの? 身体冷たくなってるじゃない」
「…寒さ…感じなかったです」

顔を近付けて、涙が落ちる頬にキスをくれながら響介さんは言った。

「約束通り、迎えに来たよ」
「あと少し遅かったら、もう諦めるところでした」

私の強がりは彼には十分承知のことだ。

「そりゃ危ないところだった」
「待つのが…つらかった」

響介さんはよしよし、と私の頭を撫でてくれ、

「もうどこへも行かないよ。小桃李のことも、絶対に離しはしない」

そう言って抱き締める腕により一層力を込めた。

「ちょっと苦しい…です」
「僕の腕の中に残ってくれるなら、壊れてもいい。抱き締め足りない」

甘い言葉をいくつもいくつも落としてくれる。再び抱き締められて見上げた先には、東京タワーのオレンジ色。
涙で滲んだ、灯り。

私が見上げた先を、響介さんも見上げる。

「東京タワー、本当に昇る?」
「はい。記念に」

* * *

私たちは展望台へのチケットを買い、エレベーターへ直行した。
地上150mのところにあるメインデッキまで昇った。
冬の澄んだ空気に煌めく夜景、普段私たちが過ごす東京が一望出来る。

「あの辺、会社ですよね?」
「たぶんね」
「あの辺、私たちの家の方ですよね?」
「たぶんね」
「もう、たぶんばっかり!」

響介さんは笑った。子供みたいな無邪気な笑顔だった。
こういう笑い方するんだって、初めて思った。

「裁判、勝ったということですよね」
「いや、和解だ」
「和解…」
「納得し合ったということだ」
「奥様…観念したんですね」
「もう奥様、じゃない」

私は眼下の景色を眺める。

「…不思議です。この幾千の灯りの下にはそれぞれの暮らしがあって、こんなに多くの人々が息づいているというのに、たった一人を選んでいくなんて」
「…」
「響介さんのこと待っている間、私は地上から何度もビルの隙間の空を見上げました。今は私はひとりで、でも行き交う人は大勢で、みんな誰かを待つ家に帰ったり、あるいは誰も待っていなかったり…こんなにこんなにたくさんの人とすれ違うのに、私はたった一人を待っている。この灯りのどこかの下にいる、たった一人を」
「小桃李…」
「それが私にとっては、響介さんだったなんて、この灯りを見ていると信じられない気持ちになります」
「今、隣にいても信じられない?」
「まだ夢じゃないかって」

響介さんは私の頬をつまんだ。

「どう?」
「…まだ実感ないです」
「なにぃ〜?」

響介さんは私を後ろから抱き締め「実感してくれよ〜」とおどけた。
人目を憚らずこんなことも今は、出来る。

私たちはもう堂々と恋人として振る舞って良いのだ。

もう…堂々と?

「離婚の成立って、これからまだ届けを出すとかあるんじゃないですか?」
「お互いの弁護士がついていたから、弁護士の前で離婚届を書いて、日中に僕が既に役所に提出してきたよ」

その目は少し突き放すような冷たさがあった。

「確かにまだ少し残作業はある。多少なりの財産分与があるから。それは早めに処理して片付ける」
「そうですか」

けれど次の瞬間私を見つめた目は優しかった。そして耳元で囁く。

「それより、晩飯作って」
「…今からですか?」
「あ、面倒くさがってる!」
「そうじゃないです!」

響介さんはプッと吹き出したかと思うと、あははと笑った。

「でも…これからは響介さんの健康管理もしっかりさせてもらいますね。今度人間ドックの結果を見せてください。ずっと外食だったわけですから、バランス考えないと。当面夜の外食はだめです。お酒も1日350ml缶1本を限度にしましょうね。休肝日は週に2日設けましょう。お昼もゆくゆくはお弁当作ってあげたいと思いますけど、すぐには出来ないので当面はなるべくカロリーと栄養バランスを気にしてください。あとは…」
「小桃李、さっそく厳し過ぎるよ!」

そうは言うものの、響介さんはまるで子供のように破顔して、一層強く私をハグした。

「今晩は…何が食べたいですか?」
「小桃李がいいな」
「真面目に答えないと全部抜きにします」
「それじゃ健康管理にならないだろう~」

幸せだった。
こんな会話の中から少しづつ実感が湧いてくる。

東京の光の海。

この中に私たちのような2人も、きっといるのだろう。
それは何だかとても心強かった。
不謹慎かもしれないけれど、心強いと思えた。

それは "ふたり" という、最も強い光。




#42へつづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?