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【連載小説】あなたに出逢いたかった #44

8月。

ターミナル駅を降りると、地面を焼き付けるかのような陽射しと、息をするのもむせ返る湿気に、梨沙は顔をしかめた。

近くの公園からか、蝉の大合唱がここまで届く。三重奏か、と梨沙は耳を澄ませてみる。けれどどの鳴き声が何の蝉かまではわからない。ミンミン蝉と、あと何だっけ…。
そう考えながら駅近くにある予備校が入っているビルに入っていく。

ちょうど今、遼太郎は毎年恒例の墓参りに蓮を連れて京都に行っているが、今年は夏希と2人で留守番をしていた。"受験生" であることを理由にして。こうして夏休みも予備校の夏期講習に通っている。


この半年間、梨沙は "遼太郎の全てを受け入れる心の準備" をするために過ごした。
稜央にも連絡を取っていない。遼太郎に問い詰めたりもしない。康佑も連絡は寄越さなかった。彼女が出来たのだから、当たり前だろう。

とにかく、学校でも予備校でも心を無にして勉強に集中した。
時折襲う川嶋桜子への嫉妬に対しては、得意の絵を描くことでカタルシスとした。梨沙の理想の愛の世界を、絵に込めた。

過去の出来事が今のパパをつくっている。であれば、それも含めて全て受け入れる。
それが愛なんでしょ?
過酷だからこそ愛って、強くなるんだね。


一方で梨沙は日本の大学は諦め、ドイツに戻ろう・・・と考えていた。遼太郎の秘密を知った暁に日本を離れる。
今は自分も、周囲も、激しく乱れている。自分が引き起こしたせいで。自分が遠く離れれば皆の心に凪を与えるだろう、それぞれが落ち着く場所に還るだろう。そう考えた。

まだ両親にも話していないが、遼太郎はきっと了承してくれると思う。もちろん彼とも離れることになるが、彼は今でも仕事で日本とドイツを往復することがあるから、2人で会うことは出来る。
が、夏希はどうだろうか。彼女のトラウマを刺激するこの話。また揉めるだろうか。前回みたいに遼太郎が取り持ってくれるだろうか。



冷房の効いた予備校の教室から外に出ると、この温度差は若い身体でも堪える。吹き出す額の汗を拭いながらハンディファンを手にして駅に向かうと、メッセージを着信した。


梨沙ちゃん、元気にしてる?

稜央からだった。



東京駅近くにある、線路が見下ろせるカフェ。梨沙は窓辺の席で、新幹線が速度を落として構内に滑り込んで行くのを眺めていた。
しかし穏やかな気持ちではない。何度も店の出入口に目をやる。頼んだアイスピーチティーは一口飲んだだけで、そのままグラスが汗をかいていた。

やがて西の空から真っ黒な雲が煙のように近づいてきた。窓の外がフラッシュのように光ったかと思うと、空を引き裂くような轟音が響き、近くにいたカップルの女性が小さく悲鳴を上げた。
窓ガラスを大粒の雨が叩きつけ始める。

雨を見上げ、不安げに振り向くと、ちょうど稜央が姿を現した。カジュアルなサマースーツを着てビジネスバッグを手にしている。
梨沙は弾かれたように立ち上がると、稜央は右手で "座って" と促した。

稜央はアイスコーヒーを注文しながら、梨沙の向かい側に腰を下ろした。スーツのせいか、少々整えられた髪のせいか、元日に会った時よりも精悍な印象だった。

「すごい雨になってるね。ちょうど建物に入った時に降り出して、ギリギリセーフだったんだ」

明るく振る舞う稜央だったが、梨沙はぎこちない笑顔を浮かべるだけで何も言えない。

2人共しばらく落ち着きなく、視線を泳がせた。その時稜央の目に、梨沙の胸元がやや開いたシャツから左鎖骨辺りに青い蝶が描かれているのが映った。

「梨沙ちゃん、それ、もしかしてTatoo?」

梨沙はハッと手で抑えたが、そっと手を離して言った。

「ベルリンにいた時にやりました」
「怒られなかったの?」
「パパ…父は苦笑いしていました。母は知りません。たぶんまだ気づいていません」
「そ…そうなんだ…」
「あ、帰りは何時の新幹線ですか」

伏し目がちに梨沙が尋ねると「19時5…20時少し前の」と、やはり視線を落として稜央は答えた。

「あと2時間ちょっとですね」
「うん…」

そのまま会話もないまま、稜央の前にアイスコーヒーが置かれた。梨沙の前のグラスは既に氷が半分以上溶けていて、何の飲み物だったのかよくわからなくなっている。

「梨沙ちゃん…飲み物、頼み直す?」
「いえ」

梨沙は慌ててすっかり薄くなったピーチティーをストローで吸った。

稜央も自分から呼び出したくせに落ち着かない。
出張で珍しく都内に出てくる用が出来た。パンドラの箱を開けたと思われる梨沙のことがずっと気にはなっていたものの、1月を最後にやり取りは途絶えていた。遼太郎とも連絡は一切取っていない。

「あの稜央さん…どうして突然、会おうなんて?」
「うん…元気にしてたかな、と思って…」

稜央はストローの包み紙を弄みながら、やや潜めた声で言った。

「僕は梨沙ちゃんに、嘘を付いていた部分と、本心で接していた部分とがあって…つまりチグハグだったんだ」

梨沙はテーブルの上に出来た自分のグラスの水たまりを指でなぞる。

「…嘘の部分、ってもしかして家族のことですか」
「うん」
「稜央さんは、自分の父親のことは知らない、と言いましたが、私はたぶん、稜央さんの父親を知っています」
「うん…。そうだと思った」
「やっぱり…そうなんですね…。パパ…いえ、父は…」
「いいよ、パパで」
「…父は、川嶋稜央をよく知っている、と言いました。でもそれ以上は何も聞いていません。私の大学受験が終わったら、全てを話してもらうことになっています」
「えっ…そうなの…?」
「稜央さんは父と…何も話していないんですか?」

稜央は首を横に振った。

「僕はたぶん、あの人にはもう会わない」
「…どうしてですか?」

それには答えず稜央は続けた。

「僕は今日、独断で梨沙ちゃんと会っている。あの人はこのことを知らない。あ、梨沙ちゃんが伝えていなければ」
「伝えていません。父は今東京を離れていますし、父からは "俺から話すまで川嶋稜央と何も話すな" って言われています」
「東京を離れてるって…またドイツに?」
「いえ、京都です。父の学生時代の友人のお墓参りに。毎年行っているので」

京都。そんな所に行くのか。
学生時代の友人…母さんも知ってる人か…いや、京都に墓参りなんて聞いたこと無いな…と稜央は考えた。

「でも梨沙ちゃんは、もうわかっているんだね」
「…稜央さんが知ったのは…いつですか?」
「…あの人から聞くなら、それはその時に。僕はもう梨沙ちゃんが全て知っているのかと思っていたから。だからもうひとつの…本心で接していた部分のことを…」

梨沙は手を膝の上に置き、真っ直ぐに稜央を見つめた。

本当に、とてもよく似ている。
本当に、この人はパパの遺伝子を受け継いでいる人なんだ。
親子だと言われればこんなにしっくり来ることはないだろうと思った。蓮も隆次も、ここまで似てはいない。

ただ稜央が遼太郎のことを "あの人" と呼ぶのが気になった。

稜央は梨沙から目を外し、少々落ち着きない様子で語り出した。

「梨沙ちゃんに会った時、あの12月のベルリンでだよ。君はさ、とても寂しそうな…どこか満たされていないような目をしていて、僕はずっとそれが引っかかっていたんだ。僕から言わせると…とても裕福で、恵まれた家庭環境で、高校からドイツなんかに留学なんてしていて…どうしてそんな、ってさ。僕の高校生の頃は荒んでいて…詳しくは今話さない方がいいのかもしれないけど。
でも君と会話を重ねていった時、あの頃の自分が甦った。立場は正反対と言ってもいいのにさ、同じ渇望を抱いていたんじゃないかって思った時に…やっぱり君は…そういう意味で梨沙ちゃんには強い共感を抱いて」
「…」
「その寂しさや渇望をなんとかしてあげたいと思ったんだけど、君が求めたベクトルは…タブーだった。タブーから逃れるために僕の所に来たのに、それもタブーだった…」
「稜央さん」

その声に稜央は顔を上げ、真っ直ぐに梨沙を見た。

「私は周囲から変人のような目で見られることがありますが、私の身内はみんな優しいです。私みたいな猛獣同然の人間を変人扱いしないんです。今思えば稜央さんに私の話を…長いメッセージを送った時も "気持ち悪くなんかないよ" って言ってくれて、こんな私にも身内以外でわかってくれる人がいるって本当に嬉しかったけど、やはり身内だったからなんですね」
「梨沙ちゃん」

梨沙は顔を傾け窓の外を見た。空は既に明るくなっており、雨は小降りになっていた。徐行した新幹線が静かに構内に入っていく。

「僕は、あの人と同じ血が流れていることを、光栄に…いや、光栄なんておこがましいな。正直に言えば興奮するんだ。僕はあの人の狂気を知っている…僕にとってはそれが…恐ろしいほど強烈に魅力的で、その血を受け継いでいると思うと…それはつまり、悦びなんだ」

梨沙は小さく「あぁ…」と声を漏らした。今はっきりと『僕はあの人と同じ血が流れている』と稜央が言ったのだ。稜央の口から、父が語られたのだ。

その言葉を嬉しく思った。遼太郎は自分を愛せない人間だ。
そんな遼太郎と繋がりを持っていることを悦ぶ人がここにもいる。

「狂…気」
「あの人の左肩…ちょうど梨沙ちゃんが今しているTatooの辺りに昔、傷があったはずなんだ」

梨沙はハッと目を見開いた。
"ミカエルの負った傷" だ。

「あります。最近は薄くなってきているけど、まだ残っています」
「あの傷を付けたのは…僕なんだ」


キーン、と強い耳鳴りが梨沙を襲った。






#45へつづく


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