【連載小説】あなたに出逢いたかった #27
「あら、梨沙ちゃん。久しぶりじゃない。留学どうだった?」
18時になると本当に香弥子が帰って来て、ヒジャブを外しながら破顔した。
「香弥子さんに話したいことがあるんだってよ」
と隆次。彼は妻を「香弥子さん」と呼ぶ。
「あら、どうしたの改まって」
改まってしまうと何も言えなくなる。もじもじとする梨沙に香弥子は
「そうだ。晩ご飯うちで食べていく? 大したものじゃないけど」
と笑顔で言った。隆次の方を見るが、背を向けた彼はPCに向かったまま何も言わない。
「いいんですか」
「もちろんよ。お家に連絡してみて」
梨沙は家に電話を掛け、念のため遼太郎にもメッセージを送った。そしてキッチンに立つ香弥子の側に立った。
手際よく料理を作る香弥子。今日は鶏肉じゃがだという。それと漬物、ご飯、味噌汁。とてもシンプルだ。
「梨沙ちゃん、嫌いな野菜はなかったわよね」
人参を切りながら香弥子が尋ねる。肉じゃがというよりは筑前煮並みに根菜がたっぷり用意されていた。
「うん。大体大丈夫」
「えらいね。野菜嫌いの若い人も結構いるのに」
「その代わり魚介は大体ダメだけど」
「そうだったわね。じゃあ今日はちょうど良かったわ。うち魚料理も多いから。今日はたまたま」
ふふ、と香弥子が笑い、梨沙もつられて笑った。
「ね、香弥子さん。どうして隆次叔父さんと結婚したの?」
手は休めずに「え~? どうしたの急に」と照れたように笑う香弥子。
本当に笑顔が多くて可愛らしい人だと思う。黒い髪は輝くほど艶やかで、こんなに美しいのに普段はヒジャブで隠しているのかと思うともったいない気もするが、逆に ”ベールに包んでいる“ から美しいこともある。
「どうしてって、いい人でしょう、隆次さん」
「いい人だったら他にもっとたくさんいるじゃん。香弥子さんはムスリムだから…他の人の恋愛とか難しいとかあったの?」
梨沙も隆次同様、時には悪気もなく失礼なことも言ってしまう。けれど香弥子はそんなことも理解している。
「う~ん、まぁ難しいことはあったかも。いいこともたくさんあったよ。でもね、隆次さんに出逢った時に、この人と一緒に生きていけたらなぁって、不思議と湧き上がるように思えたの。それはなんて言うか…理由とか言葉にするの、難しいかもしれないね。何ていうか魂が、DNAがそう言った、抗えない、みたいな」
「魂…」
香弥子は恥ずかしそうに笑った。
「あは、何言ってるのって感じよね」
「ううん、わかる」
そうだよ、魂が、DNAがそう言ってるの。私があの人から分けてもらったDNAが。だから理由なんか言葉にならないんだよ。梨沙も強く共感する。
「梨沙ちゃん、好きな人でも出来た?」
香弥子の勘が鋭いのか、梨沙が単純なのか。自分から言い出さなくとも香弥子からその話題は振られた。咄嗟で口ごもってしまう梨沙に香弥子はニヤリと笑い「図星なのね」と言った。
「どうしたらいいかわからなくて」
「誰かを好きになるの、初めて?」
梨沙はどう答えようかと思った。もしかしたら隆次から父の事を聞いているかもしれないと思っていたのだが。
「昔からいたの。ずっと同じ人、好きだったの」
「そうなの?」
「隆次叔父さんが話してない?」
「聞いてないなぁ。隆次さん人の噂話とか好きじゃないし、自分が聞いたことも身内だからってホイホイしゃべったりしないから」
夫婦なのにそんなものなのか。遼太郎と夏希の間にも、交わされない話があるのだろうか、と思った。
「その、ずっと昔から好きな人のことで悩んでいるの?」
「ううん、新しくね、現れた人なの」
香弥子は「あら」と花が咲いたような笑顔を浮かべた。
「どんな人?」
梨沙は遼太郎のことを含めありのままを話そうか迷った。けれど稜央からは家族にも、とにかく誰にも言わないでと釘を差されている。
そうしてあれこれ考えているうちに香弥子は「ちょっとごめんね」と言ってバスルームに向かった。礼拝の時間だ。
香弥子と隆次は顔を洗い手足を清めるとリビングにそれぞれ礼拝用のマットを敷き、メッカの方に向かって祈り始める。梨沙も隅で正座をし、その様子を見つめた。過去にも何度か見たことはあるが、いつも不思議な気持ちになる。両親は無宗教。信仰心は梨沙にはまだよくわからない。
祈りが終わると香弥子はサッとキッチンに戻る。鍋を再度火にかけ少しすると
「さ、出来た。隆次さん一人だとお昼ご飯も食べないからいつもお腹空かせているのよ。逆に言うと、ラマダン(断食月)中でも全く問題ないんですって。毎日ラマダンみたいなものだからって。さすがでしょう? さっきの話はまた後でじっくり聞かせて。温かいうち食べましょ」
とトレイに皿を並べ始めたので、ついに言い出せなかった。ついでにさっき隆次に唐揚げをあげたから今日は腹ペコではないと思う、という事も言いそびれた。
梨沙は折りたたみテーブルを広げ配膳を手伝った。
「叔父さん、ご飯出来たよ」
PCに向かい背を向ける隆次に声をかける。「んー」と素っ気ない返事をし、香弥子が席に着いてようやく身体をこちらに向けた。
「いただきます」
短時間で料理していたのに、出汁がしっかりと染み込んだ、ジューシーで柔らかな鶏もも肉は絶品だった。夏希の料理がまずいわけではないが、何というか、人柄って料理に現れるのかな、と思った。
隆次は黙々と飯を食べる。普段は少食で先程唐揚げを平らげたのに、何食わぬ顔で出されたものを綺麗に平らげていく。欲を言えばもう少し美味しそうな顔して食べればいいのだが。
そんな中、香弥子は唐突に隆次に尋ねた。
「隆次さん、心境の変化が起こった時に読むお勧めの本、何かない?」
「本?」
梨沙も脈絡がわからず、キョトンとしている。
「誰が読むの?」
「梨沙ちゃんに、お勧めないかなと思って」
自分のことか、と梨沙は目を丸くして香弥子を見た。
「そうだな…。ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタインとか」
「えぇ? 誰それ」
梨沙が尋ねた。
「哲学者だよ。知らないのか? ウィーン出身で、高校ではヒトラーの同級生だった奴だぞ。梨沙の得意分野だろ」
「分野がだいぶ違う気がするけど」
香弥子も「哲学か~」と苦笑いしている。
「それ、面白いの?」
「心境の変化が起こった時に読むのにお勧めはないか、って訊くから答えたまでで、面白いとは言ってない」
しかし梨沙は気になりスマホを出してメモを取ろうとしたが、隆次から「食事中にスマホ触るなよ」と咎められる。渋々スマホを下げた。
食事が終わると隆次は「ごちそうさま」と言ったかと思うと、自分の食器を下膳したのち、再びPCに向かった。そして「梨沙は香弥子さんに話があるって言って来たんだから。話したいのならどうぞ」と言いながらヘッドフォンをはめた。
「ね、隆次さんっていい人でしょう? すごく気を遣ってくれてるのよ」
「すごくいい人かはちょっと疑問だけど…」
そうして梨沙は、稜央と出会った経緯について簡単に説明し、離れた場所に住んでいること、歳が少し上なこと、独身で彼女がいないことは把握していることなども踏まえて、上手く想いを伝えるにはどうしたら良いのか、と相談した。
香弥子は歳が離れていることなどは一切咎めず、真面目に考えてくれた。
「そうねぇ。出来ればメッセージではなくって、直接話して伝えたいわよね。あ、でも遠くに住んでるのか」
「パパの…あと隆次叔父さんの実家と同じ県に住んでるんだって。だから会う機会は作れなくはなさそう。田舎に行けさえすれば」
なるほどね、と香弥子は真剣に考えてくれるお陰で、彼女の箸は止まってしまいがちだった。それを隆次は背中越しに感じたのか
「とりあえず飯、食っちまえよ」
とモニターに向かったまま言うので、香弥子は肩を竦めた。
「それもそうよね。食後にお茶入れるから、それまでにちょっと考えるわね」
香弥子が言い、梨沙も併せて食事を済ませた。
#28へつづく
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