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【連載小説】あなたに出逢いたかった #24

横浜から帰宅した稜央は風呂に浸かりながら、梨沙の切実な涙を思い出していた。


『私を助けてほしいんです』


その言葉に面食らった。いや、心を奪われたという方がしっくり来るかもしれない。
彼女のか細い腕が、がっちりと稜央の身体をとらえていた。どこにそんな力が、と思うほど。

『ど、どう…したの…何かあったの…?』
『私、抜け出さなければいけないんです。今の…籠の中から…』
『籠? 何のこと…?』

しかし梨沙はそれ以上は言葉に出来ないのか、小さく嗚咽を挙げ始めた。稜央の頭の中はグルグルに渦巻く。

だめだ、近寄るな。父さんに殺されるぞ、いや、マジで、冗談抜きで。

それにしても助けて欲しいとはどういうことだ?
『籠』って何なんだ?

焦れったくなった稜央は乱暴にスマホを取り出すと、ある画面を開き梨沙に差し出した。

『これ、僕のメッセージID。何かあったら連絡して』

梨沙は涙に濡れた瞳を一際大きく開いた。

『その代わり、この事は絶対に誰にも言わないで。陽菜にも、君の家族にも、友達にも。絶対に、誰にも』

強い調子で念を押す稜央に梨沙は黙って頷き、画面に表示されているQRコードを読み取った。

『いい? 本当に絶対に誰にも言わないで。僕にも色々事情があって…。でも話は訊く。つらいこととか、吐き出したいことがあるなら連絡してくれていい。僕も仕事とかですぐに返信出来ないこともあるけど…』

稜央は一気に話した後、はぁっ、と一度大きく息を吐き、続けた。

『君の言う "籠" が何なのかわからないけど、僕で何かの助けになるなら、出来る限りのこと、するから』

助けになるなら、出来る限りのことするって…何が出来るって言うんだよ…。何カッコつけてんだよ…。俺はバカか…。

しかし一方で梨沙に対する同情がこみ上げてくる。あの・・父の娘、つまり、妹。

危険だとわかっていながら、これは "兄の自覚" なんだろうか、あんな事を口走ってしまった。
大好きなお父さん・・・・がそばにいてくれるというのに、何を助けてほしいのか。肉体的な何か? それとも、精神的な何かか?
それも気になった。

それにしても我ながらやっちまったな…。父さんになんて死んでも言えないよ…。
いや、知られたらきっと死んでしまう。まさに墓穴だ。

はぁぁぁ、と深いため息が風呂場に響いた。


***


横浜から1週間。
10月16日に梨沙は17歳の誕生日を迎えた。

以前遼太郎に ”アクセサリーが欲しい” とねだった梨沙が、パーティの席で家族からのプレゼントとして渡されたのはピンクベージュの薔薇の花束。そして一緒に渡された白い箱には金色で『DIOR』と書かれており、その中身は果たしてコフレセットだった。ミニサイズのオードトワレ、薔薇と同じ色のピンクベージュのリップ、ハンドクリーム。それらが入ったロゴ入りのポーチ。

夏希が説明する。

「あなたがアクセサリーが良いって言うから、パパもだいぶ悩んだみたいだけど、それは来年にしましょうって。来年はちょうど成人になるものね。だから今年は私が提案して2人で決めたの。リップカラー吟味するの、パパとあぁでもないこうでもないって、大変だったのよ。気に入ってくれるといいけど…蓮も出資しているから、ありがとうってちゃんと言って」

言われた蓮はすん、とすまし顔だ。

「ありがと」
「どういたしまして。自分で考えて用意するのが難しかったから乗っかっただけだけどね」

蓮の余計な一言に梨沙はムッとしたものの、夏希が「どう?」と訊くと花束に顔を埋め匂いを嗅ぎ「うん、いいと思う」と答えた。
夏希は安心したように微笑んだが、遼太郎は目を合わせようとせず、パーティがお開きになるとさっさとリビングを出て行ってしまった。

梨沙の胸は痛んだ。

書斎という名の狭い作業部屋に遼太郎は籠もっていた。
梨沙はもらった花束から一輪抜き、水を満たしたグラスに入れ、それを手にしてドアをノックする。そして返事を待たずに部屋に入った梨沙に振り返った彼の表情は険く、梨沙は萎縮した。

「返事を待たずに開けるなんてノックの意味ないだろ」
「ごめんなさい…」

梨沙は後ろ手に持っていた薔薇を差し出した。

「いい香りだから、ここにも飾って」

一瞬戸惑ったように目を丸くした遼太郎だったが、「ありがとう」と小さく言い、それを受け取った。

「あのねパパ…、この前からずっと怒ってる…?」
「この前っていつ」

憮然と遼太郎は言う。

「私が横浜に行ったって話した日から」
「…怒ってなんかいないよ。何でそう思う」
「あのね、実は私あの日…土曜の夜に横浜でパパを見た気がしたの。パパももしかして、いた? あの時すぐにメッセージしたんだけど、返事が来なくて。次の日もパパ、私が出かけるときまで寝ていて訊けずにいたんだけど…。その後私が横浜にいるって話たら、なんかすごく声が怖くて…。あれ以来だよね、パパがよそよそしいの」

ついに訊いた。
遼太郎は表情を強張らせ、しばらく声を発しなかった。重い沈黙の後、やはり憮然と遼太郎は言った。

「俺は横浜なんて行っていない」
「じゃあ、やっぱり人違いだったんだね」

それで済まそうとした梨沙だったが、遼太郎は重ねて尋ねた。

「お前は土曜日も横浜にいたのか? 友だちと会っていたと言っていたが、2日間も続けて何をしていたんだ?」
「…だから…私は横浜のこと何もわからないから、友達に案内してもらって街歩きしていたんだってば…どうしてそれにこだわるの?」
「こだわっているわけじゃない。普段あまり遠くに出歩く事がないのにどうしてそんな所まで、しかも土日連続で。友達って誰なんだ」

遼太郎の静かな剣幕に梨沙は慄いた。

「…ベルリンで同じギムナジウムに通っていた…1こ上の人」
「ベルリン? その人も留学生なのか?」
「うん」
「男か?」
「う…ううん…女の人…」

咄嗟に嘘を付いた。遼太郎はピクリと眉を上げる。

「…まぁいい。次からはあまり遅くならないようにしてくれ」

そう言って遼太郎は梨沙を部屋から追い出そうとしたが、手を摑まれる。

「梨沙…」
「パパ…冷たくしないで…。私なりにパパを困らせないように頑張ってるつもりなの。だから…お願い…」

梨沙の訴えに遼太郎は僅かに胸の痛みを憶える。彼女の髪を撫で「冷たくなんかしてないよ」と言った。

嘘。梨沙は心で呟く。

「ハグしていい?」

梨沙の問いに遼太郎は黙って腕を彼女の背に回した。ゆっくりと吸い込まれるように梨沙の身体がその腕の中に収まる。

温かい胸の中。もらった香水よりもよっぽど好きな匂い。身体の隅々まで染み渡る。

やがて遼太郎は身体を離し、笑顔を浮かべ言った。

「17歳おめでとう」

けれど梨沙には、上辺の笑顔だとわかっていた。

家族が皆寝静まった、午前2時過ぎ。
真っ暗な部屋の中、スマホの画面の灯りが遼太郎の顔を照らしている。

梨沙があの日、横浜にいた。お前、会ったか?

宛先は稜央だ。しかし送信ボタンは押せずにいた。

梨沙は俺の姿を見ている、あの場所で。

ただ稜央の名前は出ていない。出せないのかもしれない。仮に梨沙が稜央に会いに行ったのだとしたら、どこでそんな情報を入手したのだ。稜央本人ではないのか。

俺の考え過ぎか。
横浜に住んでいるという梨沙の友人が、有名なイベントがあるから、と単に誘っただけかもしれない。それにしてもタイミングが合いすぎる。しかも土日連続で、だぞ?

『稜央さんみたいな人、たぶん好きになっちゃうと思う…』

みたいな人、ではなく、再び稜央を好きになろうとしていたら?

送信ボタンを押せないままスマホの画面が暗転し、再び部屋は闇に包まれる。隣で夏希は小さな寝息を立てている。


遼太郎は瞼を閉じたが、到底眠れそうになかった。
ベッドサイドに置いた一輪の薔薇の芳香が、脳の髄まで染みてくるようだ。





#25へつづく

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