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【連載小説】あなたに出逢いたかった #8

翌朝。

食卓にはパンに紅茶、そして果物が並べられており、梨沙は心底ホッとした。これらは好き嫌いなく食べることが出来る。

祖父の姿はなかった。聞けばとっくに早起きして散歩にでかけている、とのことだった。昨日は疲れて休んでいると言っていたのに、何となく避けられているのではないかと思った。別に良いのだけれど。

夕方には帰路に着く予定になっており、梨沙はそれまで自分も散歩してくる、と祖母に告げた。

「お昼はどうするの?」
「色々周りたいので、要らないです」

そうしたら、と祖母は1000円を手渡してくれた。

「うちで食べるより外で食べた方が、若い人の好みのもの食べられるでしょ」

昨夜の箸の進みが遅かったことを気遣ってくれたのか、それとも梨沙がいない方が気楽なのか。恐らく後者であろう。
梨沙も同じ気持ちだ。

「ありがとうございます」

更に祖母は水筒に麦茶を入れて持たせてくれた。帽子も、と古い麦わら帽を渡してくれたが、流石にそれを被る気にはなれず「持っているので大丈夫です」と嘘をついて断った。

家を出ると梨沙は羽織っていたサマーカーディガンを脱ぎ、黒いベアトップのワンピース姿になった。太陽を反射する白い肌に青い蝶が舞っている。

小学校はバス停2つ分、中学校は逆方向にバス停4つ分あった。桜子の家は中学に向かう途中にある。バスは使わず、歩き進める。

蝉が鳴いているが東京とは違う。まるで壊れた機械から発するエラー音のようだ。
そして長閑な道。どこからか聞こえる風鈴の音も、日差しの強さで溶けそうだった。
退屈で耐えられそうにない。当時の遼太郎はこの景色で、何を思っていたのだろう。

小学校に到着したが、校門は閉まっていて入ることは出来なかった。
校舎は小さいが校庭は広く、都内とは雲泥の差だった。片隅に体育館がある。
白いワイシャツに黒い半ズボン姿の優等生、けれど暗い顔をした少年・遼太郎が過ごしているところを想像してみる。

ため息をついて踵を返し、中学校方面へ歩き出した。途中に "例の家" があるはずだ。

『川嶋桜子』が年賀状を出した住所は集合住宅のようだったが、行ってみるとそこは比較的新しい分譲住宅地になっていた。試しに表札を見て回ったが『川嶋』の姓はなかった。流石にもう30年以上経っているし、どこかへ移ってしまったかもしれない。

諦めて中学校を目指す。

夏季休暇中の部活動のためか、校庭側の門は開いていた。サッカー部と陸上部が練習している。こちらもとても広い校庭だった。砂埃が風に舞い上がる。

体育館の方に行くと球技をしている音がする。バスケか、バレーか。シューズがキュッキュと床を鳴らす音が響いている。
プールからは水しぶきの音、校舎側からは吹奏楽部のチューニング音が聞こえる。
部活動が盛んなんだな、と思う。遼太郎は中学から弓道部だったが、サッと周ったところ弓道部は見かけることは出来なかった。今日は活動がないのかもしれない。

目を閉じすぅっと鼻から大きく息を吸う。

時は大きく流れたが、あの頃遼太郎の頬を撫でた風が、今もここに吹く気がして、梨沙はその空気を吸い込んだ。

次は駅に向かう。

駅周辺はぼちぼち開けていて、駅前の商店街は飲食店が開いていた。梨沙はその中からパン屋に入り、祖母からもらったお小遣いでメロンパンを買った。

買って店を出た後、2軒隣にドーナツ屋があることに気づき、しまった、と思った。ドーナツの方が良かった。
仕方がないから帰りにおやつで買うことにしよう、と気を取り直した。

都会っ子である梨沙にとって、地方の電車の本数の少なさには閉口した。
都内のメトロであれば、ホームの端から端まで歩く間にもう次の電車が来ることだってある。
しかしこちらは、オフピークタイムとはいえ1時間に2〜3本しかない。信じられなかった。遼太郎は東京に出てきて正解だ、と思った。田舎は退屈過ぎる。

駅を降りると裏手が山になっており、やはり蝉がやかましく鳴いていた。焼け付く太陽がそのまま音になったようだ。

自分と同じ年頃の遼太郎が歩いであろう道、見た景色。
時代が変わって景色も全く同じとは言えないが、全てが真新しく作り変えられているわけでもないだろう。

梨沙は時空を超えてきたような気持ちになりながら、五感を使って歩いてゆく。


***


高校の近くには、今の川嶋桜子が住まう、こじんまりとした団地がある。そこで娘の陽菜と2人暮らしだ。長男の稜央は家を出ているが、独身で近所で一人暮らし。長女の陽菜も年頃だが、こちらもなかなか嫁に行く気配がない。田舎は結婚が早いので同級生の大半はもう世帯を持っているが、快活な陽菜は異性にモテて彼氏の話はよく聞くものの、肝心の結婚となるとなかなか話が上がってこない。とはいえ、桜子も焦らすわけでも尻を叩くわけでもなかった。

その高校に陽菜と稜央、そして桜子自身も通った。県内随一の進学校であることは昔から変わらず、陽菜の代では高校のあり方も多様化したが、それでも県内から秀才が集まる学校であることに変わりはなかった。

桜子は思う。稜央も陽菜も優秀だからわかる。でもあたしはあんな学校、よく受かったな、そしてよく卒業出来たな、と。
勉強がまるっきり出来ないわけではなかったけれど、入ってみれば周囲のレベルがあまりにも高すぎて、いつもギリギリの成績だった。

車でたまに高校の横を通り過ぎる時によぎる、そんな記憶。
同時に脳内に差し込んでくる、あの頃夢中になった男の姿。

桜子はそれが深く入り込んでくる前に、彼方に追いやる。
女の恋は上書き保存なんて言うけれど、どういうわけか彼だけは別名保存されている。

もう50を半ばも過ぎて、それなりに付き合った人もいたのに、どうしてアイツなんだろうと桜子は不思議に思う。10代半ばから20歳までの、ほんの僅かな時間しか一緒に過ごさなかったのに。

アイツは一方的に別れを告げたし、最終的には優しくなかったかもしれない。
けれど、少なくとも高校生の間は、自分にとって世界一優しかったし頼りになった。単純に全てがカッコ良かった。みんな憧れていたし、高2の頃は大学生の彼女もいたから、まさか自分の彼氏になるなんて夢にも思わなかった。

そんな事を考えて、もう何十年前の話だっと思ってるの? と自分を嘲笑う。

けれど一瞬で過ぎたからこそなのかもしれない。
それなのに、あたしに一番深く跡を残していった。

ふぅっとため息をつき、ハンドルを切った。


***


地図アプリを見ながら駅前の通りを真っ直ぐ進み、途中右に折れてしばらく進むと高校が見えてきた。こちらは建て替えられたのか、新しい校舎だった。校門はほんの僅か、人が1人通れるくらいの隙間が開いているだけだった。

梨沙は校門の前に立ち、じっと校舎を見上げる。そしてまぶたを閉じ、息を吸い込む。
卒業アルバムで見た、温和な笑顔の遼太郎を思い浮かべる。


遠くにざわめきが聞こえる。
チャイムの音、廊下を駆け出す靴音、フェンスを超えて買い出しに行く学生たちのはしゃぐ声、部活動中の掛け声…。


梨沙の胸にこみ上げる、自分の記憶ではない記憶。まるで身体が昇華して、空気と一体になったかのようだった。

周辺を歩くと、弓道場を指し示す矢印があった。迷わずその方向へ向かう。やがて道場と思しき建物が見えてくるが、周囲を木々で囲まれて、全容がわからなかった。
それでも近づき、道場の扉に触れた。ひっそりとしていて、中には誰も居ないようだ。

もしかしたらここも新しく建て替えられて、遼太郎がいた当時の状態ではないかもしれないが、それでも触れたい衝動は抑えられなかった。

再び瞳を閉じる。
蝉の声、矢場を駆ける矢、的に当たる乾いた音、榊が風に揺れる音…。
梨沙の知らない音がする。

白い道着に濃紺の袴姿で、弓を手にした遼太郎を思い描いてみる。
確かに存在した時間の中で梨沙は再び空気となる。

一陣の風が梨沙の頬を撫で髪を揺らす。その風の中から匂いを嗅ぎ分ける。自分の中にもう一人の青春が入り込んだ感覚に陥る。

「パパが弓引いてるところ、見てみたいな。もう引かないのかな…」

そう思いながら道場を見上げ、名残惜しそうにその場を離れた。

地図をチェックすると、歩ける距離に川原があるようだった。川べりが好きな梨沙はそこを目指すことにした。

高校の裏手の、林道のような道を歩く。
人気ひとけは少なく、青々とした木々が風に乗って、何かを語りかけるかのように枝葉を揺らす。

1台の軽自動車が、正面から歩いてくる梨沙の姿を捉えていた。

制服を着ていないが、高校生くらいだろう。うちの高校の子かな。夏休みでちょっとお洒落して出かけているのかな。
それにしてもずいぶん垢抜けた感じの子がいるんだな、と運転席から桜子は思った。

肩が露出したワンピース。顎で切り揃えられたボブヘアの毛先は艷やかにカールし、日差しを照り返すほどの肌の白さが眩しい。
そしてその短いスカートから伸びる脚は少年のように細い。それが小柄ながらもスタイルの良さを際立たせている。

"あたしもあれくらい短いの、履いてたっけ…"

桜子は自分の高校時代を思い出して懐かしみ、くすぐったい思いでスピードを落とし、少女とすれ違う。露出した肩には青い蝶のTatooが見えた。

あれ、やんちゃな子なのかな。
まぁあたしもブリーチしてピンクに染めたりして、やんちゃだったよね。

きれいな子だと思ったが、ちょっと生意気そうにつぐんだ唇、瞳はどことなく虚ろで寂しげな印象があった。まるで人形みたいに無機質。
バックミラー越しにもその後ろ姿をしばらく見つめてしまう。開いた背中も白く、肩甲骨が浮くほど痩せていて、何だかひどく気にかかる。

異空間からポッと落とされてしまったような。





#9へつづく

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