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【連載小説】奴隷と女神 #29

「…松澤さん、どうしたの、こんな時間に」
「あ…、たまたまちょっと通りかかって…」

響介さんは私に近づき「これからどこかへ?」と訊いた。

「いえ、帰るところです」
「じゃあ駅まで行こう」

そう言って響介さんは私の少し前を歩いた。けれどその歩く速さは私に合わせてくれているようだった。

「西田部長、遅かったんですね」
「うん、ちょっと営業部と報奨金の件で一悶着あってね、松澤さんは週末だし、どこかで飲んでた?」
「はい…合コンでした」
「そう…、誰かいい人いた?」
「…連絡先は交換しました」
「…そっか」

そこからは特に会話もなく、どことなく重い空気を抱えたままあっという間に駅に着いた。
大手町駅の階段を降りると、それぞれのメトロの乗り場まではカオスだ。
以前響介さんは3路線どこからでも帰れると話していた。私が一緒の時は私に合わせて三田線を使ってくれていた。けれど、

「じゃあ僕は千代田線で帰るから」

つまり同じ路線には乗らないということだ。

「はい…お疲れ様でした…」

お疲れ様、と彼は軽く手を挙げて去っていく。私は立ち尽くしてその背を見送った。

その背を見ながら、涙がこみ上げてくる。

あなたなしでは、何も考えられないのに。
あなたがいないと、私は…。


その時、響介さんが立ち止まり、振り向いた。
週末の人の波が互いの姿を見え隠れさせながら、私たちは見つめ合った。

目尻を下げてため息をついた彼は、踵を返しこちらに近づいてきた。

「どうして、泣いてるの?」

穏やかな笑顔のまま、響介さんは訊いた。

「泣いてなんか…」
「合コンで嫌な目にあった?」

優しい声。私は首を横に振る。

「やめた」

唐突に響介さんは言った。

「えっ…? 何を…?」
「千代田線で帰ること。やっぱり三田線で帰る」

響介さんは私の背中にそっと手を添えて、一緒に乗り場へ向かった。

* * *

金曜夜のメトロ車内は混んでいる。私たちはドアの脇に並んで立った。

「髪、切ったんだ」
「…はい」
「似合ってるよ。でも少し幼く見えるかな」

2人でいる時に見せる優しい顔でそんなことを言われ、ぎゅっと胸が詰まった。

「どうして泣いてた?」

そしてもう一度響介さんは訊いた。私は答えられない。

小桃李ことりは本当に強がりだな」

名前を呼ばれる。つまり今はもう職場の関係ではない、ということ。

「実は僕も…泣きそうだった」
「えっ…?」

彼は困ったように目尻を下げて、笑みを浮かべた。

「小桃李が合コンに行って、連絡先交換したって聞いて。いや、その前から」
「その前?」
「…二度と来ないで。ちゃんとした彼氏を作るから、って言われた時から」
「響介さん…」
「本当にいつまでも僕は情けないな。妬きもちばかり妬いて」

やがて電車が白金高輪駅に近づいた。彼の降りる駅だ。減速した車窓の外を彼は目を細めて見やる。

停車し、ドアが開き、彼は降りた。

そして私の腕を、引っ張った。

* * *

電車が行き過ぎ、ホームから人がはけていく。

「話がある」

静かに彼は言った。

「散々飲んできた小桃李には申し訳ないんだけど、僕の晩飯に付き合ってくれないか」

私は「はい」と答えて頷いた。


駅から少し歩いたところにある焼鳥屋さんに入る。

「飲めなかったらお茶でいいよ」
「響介さんは飲むんですか」
「うん、僕はビール」
「じゃあ私もビールで」

ふふっと響介さんは笑い、ビールをジョッキとグラスで、あと焼鳥を何種類か注文した。グラスは私用だ。

「話って、何ですか?」
「うん、食べ終わったら話す」

運ばれてきた焼鳥を勧められ、私も口にする。すごく美味しくて、思わずニンマリしてしまった。

「美味しそうに食べるね。合コン行ってきたんでしょ? 食べてこなかったの?」
「とにかく時間が早く過ぎてほしくて…酔わないようにお酒もソーダ割りばかり飲んで過ごしました」
「どうして?」
「私、やっぱり合コンとか好きじゃないです」
「でも連絡先交換した人いるんでしょ」
「ブロックします。たぶん会うことはないです」

そう言うと響介さんは目を細めて私を見た。そして再びフフッと笑った。

「…安心した」
「えっ?」
「小桃李はもう僕のものじゃないかもしれないけど、他の誰かのものになるのを聞くのはつらいから」

そう言って響介さんはジョッキのビールを煽り、ハイボールを注文した。
飲み物が来て、それを3分の1ほど飲むと彼はフーっと長く息をついた。

「すごくショックだったんだよ。あの時、あんなこと言われて」
「ごめんなさい…」
「でも僕もわざと気を引かせるようなことを言って小桃李を傷つけてきたから。後は小桃李がどこまで強がりで本心じゃないことを言ったか、考えていた」

響介さんは手を伸ばし、私の頬を撫でた。

「叩くなんてことして、本当にごめん。やってはいけないことだった」
「…元はと言えば私がいけないですから…」
「ほとぼりが冷めるまで、そっとしておこうと思っていたんだ」
「…あれっきりでおしまいだって思ってなかったってことですか?」
「…思ってないよ」
「こんな…アンガーマネジメントも全然出来ない、強がりしか言わない、そんな女なのに?」

頬を撫でる温かい、響介さんの手のひら。

「あぁいう時の怒りの感情はとにかく瞬発力だから」

笑顔のまま、続ける。

「だから時間を置いてきちんと話そうと思ってた」
「きちんとっていうのは、別れ話ですか?」
「違うよ」

響介さんは正面に向き直り、一呼吸置いて言った。

「本当はもう少し経ってから話そうと思っていたんだけど」

手を離してハイボールを更に半分ほど煽ると、響介さんはポツリと言った。

「離婚を考えているんだ」




#30へつづく

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