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父「源ちゃん」と登山の記憶

「もうイヤだ、帰りたい…」
その言葉が頭の中をグルグル回っている。

筋肉痛で重たくなった肩に、リュックが食い込み、何日もお風呂に入っていない体は汗でベタベタだ。

疲れで重くなった足をズリズリ引きずりながら、妄想する。

家に帰ったら、モナ王とカルビーコンソメポテトチップスを食べながらテレビを観るんだ…
ゆっくりお風呂に入って、出たら三ツ矢サイダーを飲むんだ…

「もうちょいだ」

前を歩いていた父の一言でハッと我に返る。

「く」の字に曲げて歩いていた身体を起こし、周りを見渡す。

「頂上は?」

前を見ると、遠くゆるやかな尾根道の先に鋭角な山頂が見えた。
後ろを振り返ると、さっき出発した北岳肩の小屋がすぐ近くに見える。

さっきと全く変わらない風景にうんざりした私は、心の中で

どこが「もうちょいだ」だよ!!と悪態をつく。
父の「もうちょいだ」は全くあてにならないのだ。

朝4時30分、私達家族は、ご来光を見るために北岳肩の小屋を出発した。

山梨県南アルプスにある北岳は、標高3,193メートル。
3,776メートルの富士山に続き、日本で2番目に高い山だ。

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言い出しっぺはいつも父

「北岳に行こう」
父が言い出したのは、私が中学1年生の夏休みの時だった。

私は、内心
「またやまぁ!?やだなぁ」と思った。

父は、毎年夏休みになると、母と私と兄を連れて必ずどこかの山に登った。

雨飾山
雲取山
白馬山
穂高岳
槍ヶ岳…

世界遺産登録前の屋久島にも行った。

どれも決して生易しい山ではない。

行ったら1週間から10日間は、テレビもお風呂もないサバイバル生活を送らなくてはいけないのだ。

小さい頃は気にならなかったお風呂なしの生活も、思春期のこの頃には、耐え難いものになっていた。

けれども、父の「山行くぞ」には逆らえない。

ちょっとでも反抗すると拗ねて不機嫌になってしまうからだ。

私の父「源ちゃん」

私の父は昭和49年、東京下町の左官屋の長男として生まれた。
当時は珍しくなかったが、8人兄弟の3番目だった父。父と4歳違いの弟の他は全員女性の女系家族だった。
父は皆からは「源ちゃん」と呼ばれて慕われていた。

祖父、専業主婦だった祖母、8人の兄弟、左官屋の弟子達が一つ屋根の下で暮らす生活だった。
多くの弟子を抱えた祖父の事業はそれなりにうまくいっていたらしい。

将来の左官屋の跡継ぎとして期待されて育った父だったが、酒飲みで頑固な職人気質の祖父と折り合いが悪く、中校生の時殴り合いの大喧嘩をして以来、跡継ぎの話は無くなったと聞いている。

そしてその頃、祖父が脳梗塞で倒れ、うまくいっていた稼業の左官屋も傾いていく。
姉2人はそれぞれ高校卒業後就職し、父も夜間高校に行きながら、昼間は音響関連の会社に入り働き出した。
下に続く、妹達の学費を稼ぐためにだ。

会社では可愛がられたらしい。会社の上司「バンさん」に山に連れていかれ
登山にはまった父は、会社が終わる金曜日の夜に夜行で出発、土日登山して日曜日に帰って来る生活を始める。

登山の他にも、スキューバダイビング、素潜り、スキーなど自然の中で過ごすことが好きだった父。2、3日で帰る予定だった式根島に、台風による船の欠航で、1週間ちかく滞在することになり、地元の民宿の女性に気に入られプロポーズなんかもされたそうだ。

真っ黒に日焼けし身体が引き締まった精悍な父は、とにかくモテたらしい。

青春時代を実家の家族の為に働いてきた父は、上司「バンさん」の紹介で知り合った母と31歳の時結婚した。
母もまた登山好きだった。

兄が産まれ、赤子を連れて登山は出来ないと悟った両親は、兄が生まれてからしばらくはおとなしく育児していたらしい。

兄と1歳4カ月差で私が産まれてからは、山への情熱を抑えきれなくなり、再び山へ登り始める。
大きなリュックにテントや寝袋、ガスコンロ、水、食料、2人分の布オムツを詰め込んで、いそいそと山へ出かけていったのだ。

私が記憶にあるのは、小学校1年生頃の登山だが、実家には生後2カ月くらいの首が座っていない私がどこかの山頂で母に抱かれている写真がある。

とにかく、毎年必ずどこかの山に登っていたのだ。

私と父の関係

父のことは苦手だった。
短気で、すぐ手が出る父は、気にいらないことがあると烈火のごとく怒り出した。

さらに寡黙で口下手だった父とは会話も少なく、2人でいると気まずい空気になるので、父が居間にいる時はいつも逃げるように自室へ退散していた。

寡黙で口下手なわりに、お酒を飲むととたんに饒舌になり、山や仕事の話を始める。

調子が出てくると、一升瓶から日本酒をグラスに注ぎグビグビ飲み始める。前後不覚のめんどうくさい酔っ払いになるのもあっという間だった。

グラス片手に近づいてきて「俺はね、俺はね、〇▲■※〇▲■※…」と私や兄に絡んでくるのだ。

最後には、「〇▲■※〇▲■※!!!」と訳の分からない言葉を怒鳴り散らし、自室へ消えていくのが常だった。

体格の良い父が大きい声で怒鳴り散らす姿はとても怖くて、いつも怯えていた。

父は、とにかく「自分中心主義者」だった。

「お子さん達とどうぞ」と同僚から譲られたディズニーランドの招待券を
「私は(ディズニー)嫌いなんで」と言って突っ返した時は、家族からひんしゅくをかった。

週末の食卓ではいつも父が好きな「男はつらいよ」が流れ、オペラやクラシックなど父が好きな音楽しかかかっていなかった。

コンサートやオペラにもよく連れて行かれた。
大人向けの演目はとても退屈で、眠い目をこすりながら「いつ終わるんだろう」と思っていた。

山の達人

そんな自己中心的な父だったが、山にいる時の父は別人の様に優しく逞しかった。

私達家族が登る山は、ほとんどが1日では山頂に行けないくらいの高さがあった。
大抵は途中の山小屋に併設されたキャンプ場にテントを張って宿泊しながら何日もかけて山頂を目指すのだ。

自然の脅威にさらされたことも多々あり、屋久島の永田岳に登った時は遭難しかけたものの無事で済み、白馬山では横殴りの風雨の中、尾根道を歩かされたけれど無事だった。

「ちょっと危なかったけど無事だった」登山の記憶は、覚えている限り5個くらいはある。

山のことを知り尽くしている父は、その場その場の状況を判断して必ずピンチを脱するのだ。「父についていけば大丈夫」という安心感があった。

登山する時は、いつも、父、兄、私、母の順番で歩く。

子供だった兄と私は、あえて急な斜面を登ってみたり、珍しいキノコや植物があれば立ち止まって観察したり、子供らしい好奇心を丸だしにして歩くのでとにかく時間がかかった。

けれども、父はそんな私達の姿をのんびりと見守っていた。
短気な父には考えられないくらいの悠長さで。

時々、鳥がさえずる音が聞こえると、私達に「鳥がいるよ」と小声で教えてくれた。

「あれはジョウビタキ」

「あれはライチョウ」

私に双眼鏡を覗くように促しながら、鳥の名前をつぶやく父。
鳥には詳しいのだ。

余談だが、以前一度父の部屋から「鳥の声」と書かれたテープが出てきた。

かけてみるとそれは山でさえずる鳥の声を収録したテープだった。

鳥が鳴く声に続いて

「ジョウビタキ」
「ヒヨドリ」

とナレーターが鳥の名前を読み上げるもので、結構シュールなものだった。
父は、家で鳥の声を聞きながら、山にいるイメージトレーニングでもしていたのだろうか。

植物にも詳しかった。
ボロボロになった「山の植物」図鑑をいつも携帯していて、珍しい植物があれば必ず調べてチビて短くなった鉛筆で大きく丸をするのだ。

厳しい登山にも楽しみがあった。それはおやつタイムだ。
4人が全員座れそうな大きな岩、通称「おやつ岩」を見つけると

「よし、おやつだ」

と言って父は、リュックからチョコレートや飴、クッキーを取り出す。

山の中で食べるおやつは下界で食べるよりも美味しく感じられて、私は毎回このおやつタイムを心待ちにしていた。

父は、おやつタイムの最後に、必ず山の地図を広げて、目的地までの道順を確認する。大きい紙に〇や▲、山の名称や標高だけが書いてある簡易的な地図を見て、父は

「もうちょいだ」と私達に声をかける。

この「もうちょいだ」を合図に私達はリュックにおやつやゴミを詰めて再び出発するのだ。

「もうちょいだ」は「もう少しで着くよ」という意味ではないことが分かったのは、小学校高学年頃だった。

父の「もうちょいだ」はヘタレている私や兄を励ますためにかける掛け声みたいなものだ。

その証拠に「もうちょいだ」を聞いてからも、なかなか目的地に着くことはない。期待してもなかなか着かないので、落胆をしないために父の「もうちょいだ」は信じないことにした。

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「もうちょいだ」

再び父の声がした。
少し上の方から人々が話している声が聞こえる。
山頂に近づいた気配がした。見上げると数メートル先に【北岳山頂】と書かれた木の看板が見えた。

今の「もうちょいだ」は本当だった。
本当にもう少しで着きそう、そう思った途端嬉しくなって、体に力が湧いて
きた。

最後駆け上るように、急峻な岩場を登ると岩だらけで草の生えていない北岳山頂に着いた。

ようやく着いた。
やり切った充実感で満たされる。
朝の澄み切った空気が肺いっぱいに入り、細胞が蘇るような清々しさに包まれる。

目の前には延々と続く雲海が広がっていた。
遠くまで続く雲海に、ポツンとオレンジ色の物が見えた。

ご来光だ。

濃い藍色だった空がうっすらと薄紅色に染まっていくのを眺めながら私は

「こんなキツい山は2度と来ないぞ」と心に誓った。

中学生で反抗期真っ只中だった私の「行きたくないオーラ」を感じ取ったのか、北岳の登山を最後に、家族で登山に行くことは無くなった。

父は今74歳になった。

あんなに頑丈だった父も年を取って病気をした為か、あまり山に行かなくなってしまった。
体力的にもきつくなってきたのかもしれない。

私は、父と一緒にまた山に登りたいと思うようになった。
自然のことを知り尽くしている父に、教えを乞いたいと思うようになった。

父があまり年を取らないうちに

「今度一緒に登らない?」

そう誘ってみようと思っている。


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