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私の言葉が、命を断とうとしていた人を踏み止まらせた話

「西尾さん、Aさんがヤバいことになってる。」


友人からそんな内容のLINEが送られてきた。


ヤバいの意味がよく分からなかったので、とりあえず彼のX(ツイッター)を見てみることにしたところ、これは確かに「ヤバい」としか言いようがなかった。


これから命を断とうとしている、というのだ。


Aさんは10年来の友人だ。

何とかせねばならない。

その選択を踏み止まってほしい。

彼のツイートを見た時に、真っ先にそんなことを考えた。


目の前で一人の友人の命が風前の灯になっている。私はそれを知ってしまった。一人の友人としては彼を失いたくはないわけだ。


だからそこで、私は彼に向ける言葉を考えた。

生きる上で救いとなるような、悲劇的な結末を避けるために、説得力のある言葉を。


ただ、私にはそれが皆目見当が付かなかった。

何故彼がそのような想いを抱いたかが分からなかったからだ。


いかに生きることの大事さ、命を断つということがいかに良くないことかを私の目線で語ったところで恐らく彼には響かない。どんな正論を投げかけたところで、それが通じるようには思えなかった。


私は人の気持ちを変えるというのは本当に難しいことだと思っている。自分に出来ることは、気持ちを変えるための材料を提示することだけである。


強い決断であればあるほど、その引き金になった出来事や想いは根深い。彼には彼の考えがあり、踏み止まってもらうためにはその根深さに勝たねばならない。だから誰かを説得するときに私はいつも、その人にとってWinになる何かを提示するように心がけている。


そこで私はふと考えた。

命を断とうとしている人にとって、それを踏み止まることのメリットとは何か。


こんなに重い決断をしようとしている人にとって、倫理を説くことも、家族が悲しむなどという泣き落としも通用しないことだろう。むしろありきたりな言葉は極端な決断をしようとしている人を頑なにするだけだ。


そういう一切合切を通過して、ヤバい方に向かっている。

生半可な言葉は無意味を越えて逆効果にさえ成り得る。


結局そこで私が気づいたこと。

私には彼を踏み止まらせる言葉を持ち合わせていないということだった。

そしてそれは、友人も同じことだった。


そもそも、ここで決断をやめさせることは彼にとって幸せなことなのだろうか。


引き金となる出来事があり、生きることを辞めようとしている。彼にとって生きることは辛いことなのだ。踏み止まってもその事実は変わらない。少しずつ状況を変えることは出来ても、明日からその景色がいきなり変わるということは無い。


楽しい何かを始めてはどうか。

環境を変えてみてはどうか。


辛さを取り払い、生きる意味を持たせるということは一つのアプローチだ。人は辛いときに何故かその環境で生きることを前提に考えがちではある。論理的に考えれば、辛さを回避するための提案は可能だ。


だが、そういうことではない気もする。


彼がそのような決断をしようとしていることを知った後、私がしているのはあくまでも、彼を踏み止まらせたいという私の想いを達成させるために、彼に価値のある言葉を考えるということだった。


つまり彼のことを考えているようで、起点となっているのは私の独りよがりな想いなのである。


誰かに何かを説くとき、大抵の場合説かれる側は身構える。説得されるというのはあまり楽しいことではないし、誰かの考えに乗るという行為はある意味で屈服しているとも言える。同じ決断をするにしても自分から掴みに行くのと人の提案に乗るのとでは気構えが異なってくる。


考えれば考えるほどに、何をすれば良いのかが分からなくなる。


彼にとって幸せではない提案をすることに、独りよがりな自分は意味を見出そうとしている。しかし一方で、命が失われるというヤバい状況に指をくわえて観ているというのも違う。


ただ、こうも考えた。

決めるのは、彼なのだ。


それが独りよがりな考えであったとしても、Win-Winな提案が建前であったとしても、こちらの言葉を受け止め、どう消化するかは彼に懸かっている。私に出来るのはどうすれば響くか最善策を考え、実行するところまでだ。


同じことを言われても、その時のコンディションによって響き方は異なる。素直に受け止められることもあれば、気分次第で反発することだってある。タイミング次第で正解になることもあれば不正解になることもある。


自分の想いと、彼の想い。

そして、タイミング次第であること。


結局私は、シンプルな結論に行き着いた。


100%正解など存在しない。

自分が信じる言葉を掛けよう。

と。


私は彼に残した言葉。

それは「とにかく、一度話そう。」ということだった。


何かが変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。そして彼のためなのか私のためなのかも分からないけど、何かできることがあればしたいと思う。


私は彼に、そんな風に伝えた。

それがその時の私の精一杯だった。


********


その後私は友人経由で彼が踏み止まったこと、そして私からのメッセージがその理由の一つだったことを聞いた。


彼が生きることを選んだということ、そしてその力になれたことは素直に嬉しかった。


生きることによって更に苦しむかもしれない。私がしたことは結果的に更なる苦しみの後押しになってしまうかもしれない。


それを思うと、私の行動が正しいかは結局のところ分からない。


人や状況よっては命を断った方が楽なことだってあるのだから、私は余計なことをしてしまったということなのかもしれない。だから今回のことで胸を張るのも違うと思うし、多くの方に私と同じように振る舞えということが伝えたいわけでもない。


ただ、彼には響いたのだ。

運良く。


生きていると、何が正しいか分からないことばかりだ。2023年にもなると、それは更に色濃くなってきたように思う。私が子供の頃は、親より上の世代が絶対的な正義を持ち合わせていて、良くも悪くもそれを振りかざされることによって導かれてきた。


だが、今はそういう時代ではない。


大人たちですら正解が分からないことに怯えている。

それを子供たちが冷ややかに見ている。


どの道を選ぶか。

何を正しいとするか。

そもそも正しいとは何なのか。

常に迷いの連続だ。


その中で、相手を想い、自分の信じるものと照らし合わせて、その時に考えられ得るベストの答えを提示する。生きていく中で求められるのは、そういうことではないかと思う。


自分の正義を一方的に振りかざしてすべてが丸く収まる時代なんてとっくの昔に終わっている。言葉のニュアンスや口調、態度にも気を配らなければならない、難しい時代だ。


迷いながら、暗がりの中を手探りで進んでいく。それでいいと思うし、それしか出来ない。日々反省しながら、100%の正解が無いことを知りながら、それでも正解を求めて生きていく。


彼が今生きてくれていることは感謝すべきことだ。

だがそれは私が正解に辿り着いたからではない。

それを真摯に、謙虚に受け止めて、次の難題に向き合いたいと思うのだ。

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