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『広告がなくなる日』を読んで。

どうも、桜井です。

牧野圭太さんの「広告がなくなる日」を読んで、心に残ったことを書き残していきたいと思います。

ブランドと社会のどこに「接地点」をつくるか。

我々の仕事のテーマの一つは「ソーシャルアタッチメント(接地)」です。言い換えると、「ブランドと社会を接地させる」ことです。この数年で「ソーシャル」という言葉の持つ意味が大きく変わったと認識しています。その要因は「ソーシャルイシュー」の顕在化と、「ソーシャルネットワーク」の確立の二つです。

これは私見なのですが、広告もブランドも社会課題を解決するための道具であると考えています。消費者の負を解消することは大前提ですが、消費者の負の裏側には社会課題が存在し、表裏一体であるという考え方です。

「美味しいご飯が食べられない」という負の裏側には低収入の家庭環境や孤食の拡大があり、「リモートワークが浸透しない」裏側には意思決定者のリテラシーの不足=本当に意思決定すべき人材が決定者になっていない=会社の評価制度が破綻=旧来のビジネスモデルから脱却できていない、といった格好です。

ブランドは社会課題を解決するために存在していると思うし、常に社会情勢がどうなっているのか?を知る義務があると思っています。


広告やマーケティングは、「古きビジネスの延命装置」

広告は「新たに問題を生み出すことで(ビジネスの)ゲーム終了を先延ばしする仕事」という指摘がされています。「スペックや新規性」で勝負できないサービスを、「広告の力」で売ろうとしているのだとしたら、そう思われても仕方がありません。
「ビジネスの延命装置」の広告から、より人々が人間らしく幸福に暮らせる社会づくりのための広告産業へ。関わる人々の意識を変え、ゲームを変え、より意味のある産業へとシフトしていく必要があるのだと思います。

販促・集客とは少し異なりますが、求人メディア事業においても同様だと感じます。掲載課金の博打モデルで高い利益を得ていた先駆者たちが、時代の変化を無視し、もうすでにそれらが「効果の出ない手法」になってもマジョリティー化をやめない姿を見るととても悲しくなります。HRにおいては単なる条件の羅列(給与・勤務時間など)だけでは応募は来ません。

ある特定の既得権益者のキャッシュエンジンであることで、ビジネスが無駄に延命されている状態はあってはならないし(これからもそれらの自然淘汰は進みますが)、私自身も消費者が本当により良い生活を送ることができるブランドが生き残るよう、お手伝いしていきたいと思っています。


SDGsは令和版の「大衆のアヘン」。

SDGsは現代版「大衆のアヘン」だという指摘がありました。これは、言葉だけを掲げ、会社のHPに載せ、バッジをつけて、ストローを紙にするだけで、「辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる」ことで満足してしまうことへの警鐘です。

SDGsはあくまでも例で、その他でも「業務効率のクラウドツールを導入しているからDXは推進している」とか「Webプロモーションを運用しているからデジタルはカバーできている」などと、導入と成果を混合にしてしまうことはよくある間違いなので気をつけていきたい。声をあげ、行動に移すことは大変素晴らしいことですが、本当に大切なのはその先に具体的にどんな改善ができたのか?どんな社会貢献ができ、自社の利益につながったのか?だと思っています。


デザインは、いつでも「より良い未来」を検索する。

デザインは「機能」に従うものであり、いつでもその「機能性」に立脚するものです。デザインとは人々のより良い暮らしを希求する行為であり、逆に言えば、より良い未来を実現するためにも、「デザインという領域」はとても大きな役割を担っています。

デザイン、または情緒的な価値とも言い換えられるかもしれませんが、それらを表現することは大事ですが、それよりも大前提となるのが「機能(機能的価値)が優れている」ことだと思っています。どんなに素敵なマグカップでも取っ手が取れてしまったらどうしようもないため、デザインや情緒的価値を伝えるには最低限持たなければならない機能性を備えておく必要があります。デザインの前にここのポイントは押さえておくべきと感じました。


「我がまま」というマインドセット。

最も個人的なことは、最もクリエイティブなこと。これは『パラサイト-半地下の家族』のポン・ジュノ監督がアカデミー賞受賞式で語った言葉です。ビジネスにおける、様々な「事情やしがらみ」の中で、それでも感覚や直感を大切にし「これがいい」と判断できる人はとても貴重な存在です。これがつくりたい。こうあるべきだ。そういう「自発的で人間的な衝動」を持ち続けられることも、クリエイターに求められる大切な気質の一つだと考えています。

「個人的なこと」と「独りよがりなこと」は似て非なると思っています。本書では「我がまま」とも翻訳されていますが、私個人の「個人的なこと」とは、よりpersonalな意味(個人的な話、たとえば家族や身の回りの話)として受け取りました。自分では誰に話してもつまらない話だと思っていたけど、いざ話してみたら案外楽しんでくれた、興味を持ってくれた、なんてこと、皆さんも一度はあるかと思います。その個人的なことこそ、クリエイティブなのではないか、というのが私の意見です。

また「自発的で人間的な衝動」で思い浮かんだのは今年の正月に新聞広告に出た「くたばれ、正論。」だと思っています。

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くたばれ、正論。
この世の行き過ぎた正しさが、君の美しいカドを丸く削ろうとする。正しすぎることからは、何も生まれない。常識を積み重ねても、所詮それは常識以外の何物でもないから。自分の感受性を守れ。自分の衝動を守れ。自分の中のバカを守れ。本当が面白いと感じる方へ動くんだ。まっすぐ、愚直に、大きく行こう。

私はこの新聞広告を目にして(最終的に)前職を辞めることを決意したのですが、「自分の衝動性を守ること」は人生においてとても重要度の高いミッションであると感じています。理性は大切ですが、感性はもっと大事だと思います。感性を守るために衝動性を守る、という努力を続けていきたいです。


ブランディングの一番の価値は「HR」への貢献。

ブランドをつくることの「一番のメリットは何か?」と聞かれたら、僕は「HR=ヒューマンリソースへの貢献」であり、「採用の活性化」と「社員のモチベーション向上」の効果だと答えます。「意味が枯渇している時代」だからこそ、働く意味、そこに存在する意味、それらを明示できる組織には人が集まり、モチベーションを高く維持しながら働くことができます。

本を読んでていたタイミングとほぼ同時に同じようなツイートをしていました(びっくり)。

ブランディングに成功したかどうか?についてはさまざまなKPIがあると思いますが、個人的には牧野さん同様「HRへの貢献」にあると思っています。ブランドを体現するのはほとんどが「人」です。だからこそ、働く人の意思決定は一貫性を持つべきだと思うし、採用する基準・育成のカリキュラムもブランドが提供すべき価値に立ち返って考える必要があると思います。


ビジネスに「アーツ」をインストールする。

ビジネスにおける「サイエンスでは捉えられない大切なもの」が確かに存在し、それは時に、ビジネスにおいても大きな効力を発揮するものです。広告クリエイティブの仕事の一つは、そのようなアーツを、ビジネスや社会にインストールしていくことでもあるのだと思うのです。

アーツとサイエンス。右脳と左脳。感性と理性。さまざまな言い回しがありますが、個人的には「美意識」という言葉をよく使っています。

お客さんへの言い回し、メールやチャットの文面、企画書、服装や佇まいなど、サイエンスだけでなく美意識(≒アーツ、右脳、感性)を磨くことこそ、これからのビジネスマンに必要なのだと強く感じています。


どうして家電売場は「同じようなもの」ばかり並ぶのか。

あるメーカーの方とこういった議論をしたことがあります。「もっとオリジナルなデザインのものはつくれないものか」と伺ったら、「ユーザーはスペックで選びますから」と言われました。しかし、デザインの違いも色の違いもあまりないのであれば、結果として「ユーザーはスペックで選ぶ」しかありません。

これはその通りだなぁと感じ、少し意味を変えてツイートしました。

メーカー側は「消費者はスペックで選ぶからスペック重視の商品・サービスを作る」と考え、消費者側は「メーカーがスペック重視の商品・サービスを作っているからスペックで選ばざる得ない」と考えている。結果どちらも本音があるのにお見合いした結果、産業自体が廃れてしまう、なんてこともあり得そうです。ここにはものづくりの大きなヒントが隠されていると感じました。

以上、感想でした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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