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「また集まりたいね」詐欺には、もう引っかからない

幹事っていう“私”がめんどくさい

私は、いわゆる幹事的な役割をすることが多いほうだと思う。誰かが発した「集まりたいね」なんて言葉に乗せられて、会を企画して、日程を調整して、お店の予約に参加者への連絡…。

営業職だった頃は、調整なんて日常茶飯事だったし、むしろ大好物くらいの勢いだったのだけど、最近はしんどくなってきた。
営業であれば、うまくやることで仕事が回っていくし、仕事なのでビジネスライクに進めていけばいいのだけど、プライベートだとそうもいかない。

周りがみんな結婚したり、出産したりして調整がうまくいかないことが増えてきたのだ。
連絡してもレスポンスが遅いし、なんだか話が進まないし、それだけでゲンナリ。

まあ、忙しいんだろう。ただ、私の統計学的には忙しい人ほどむしろ連絡は早い(自称忙しい人を除く)。
きっと優先順位が低いだけだ。優先順位が低いことを感じてしまう時点で余計にゲンナリする。

さらに、当日になってドタキャンされることもしばしば。子どもが熱を出したり…それは急遽のことだから、仕方ない。

でも、その時間の埋め合わせをしてほしいなと思ってしまう。行けなくて終わり、じゃなくて次の予定を決めたりとか、なんらかのフォローの一言とか。

なんだかんだ楽しみにして、時間を取っていた私の気持ちの埋め合わせがほしいのだ。

めんどくさい幹事だと、我ながら思う。

合わない人とは、会わなくたっていい

コロナの影響で人と集まる機会自体が減り、集まる機会を無理に作らなくていいんだ、と思えるようになってきた。
こんな中でも、連絡を取りたい人とは取れているし、これから会う約束だってできている。
お互いに会いたいと思っている人との、サクサクと進むやり取りは気持ちいい。会いたい人とはちゃんと会える。合わない人とは、会わなくてもいいんだ。

そもそも「また集まりたいね」って、年賀状とかに書いてきて何もしない人が苦手。
「集まろうね」ではなく、「集まりたいね」って希望だけを伝えてくるところが、狙っていなかったとしても上手だ。
そんなふんわりとした希望を伝える割には、追い打ちをかけるように何かの機会にさらにそう言って来るのだけど、別に自分から日程を決めたり、調整したりするわけでもない。

でも、まあ、こうやって周りがやってくれるから、この人は何もせずに生きてきたんだろうなぁって思うと、ある意味うらやましい。
要領のいい人って大抵、人生の勝ち組のような気がする。何をもって勝ちなのかは置いておいて。

「また集まりたいね」っていう言葉は、私にとっては新手の詐欺みたいなものだ。もうそんな言葉には引っかからないようにしようと、心に決めた。
なんとなく、これからも引っかかりそうな予感しかしないけども。

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