文章が上手い人の文章に書かれている事を信じていない話

お久しぶりです。
なんとなく暇なので気まぐれな気分転換で書いています。
ちなみに、わりと頻繁に「エッセイ」というのが何なのかどう書くべきかわからないとボヤいてる人がいますが、「エッセイ」とはまさにわたしが今書いてるようなモノだと思っています。文章を書くのが好きな人やある程度得意な人が、ちょっとした息抜きに型にはまらない文章を書き連ねるモノなのではと。「エッセイ」とは何か、どう書くべきか悩んでる人は大抵「エッセイ」というモノを上手いコト書いてやろうとして詰んでる気がします。上手く仕上げた文章は「エッセイ」ではなく、もはや「フィクション(物語)」ではないでしょうか。
なので、そんな風に上手く仕上げてある文章に書いてある事をわたしは「リアル(真実)」だとは信じていないのです。

では、文章が上手い人の書く「リアル(真実)」はどこにあるのか??と考えると、結局のところ、それはおそらくその人の書く「フィクション(物語)」に包まれて存在するのでしょう。どんなに上手なフィクションであっても、ソレを書いている人の人となり…と言えば聞こえは良いですが、性格…というか人柄…というか本性というのは、どんなに繕っても垣間見えてしまうモノです。
様々な芸事のお弟子さんが、お師匠さんのカバン持ちから始めて、生活全般、人生そのモノを学んで行くのはそういう事なのだと思います。結局のところ、表現には全て「その人」が現れてしまうからです。

ここnoteに限らずとも、毎日投稿等で大量に「エッセイ」らしきモノや様々な創作作品を発信している人がいますが、それって結局は自分自身の真の姿を毎日世界にさらけ出しているような事で…恥ずかしくはないのかな??と思う事もしばしばです。旅の恥はかきすて、書き捨て?相当な自信家?なのか、単なる「裸の王様」なのか。(なので、たまにふと我に返った方がいきなりアカウントを消して消息を絶ったりしてしまったりするのでしょう。あーあ、せっかくいろいろ創作してきたのにね。勿体ない。)

というわけで、そんなやはり文章を書くのが好きでわりと得意だと思っているワタシは、その語彙力、文章力を活かして、自身の公式Twitterは都会的で知的で善良なキラキラオシャレハイセンス文芸ウーマンな感じでこんな感じに↓

創りあげて楽しんでいます。

と、ここまで書いて来ましたが、ワタシのこのエッセイでの趣旨に乗っとると、結局のところココに書かれている事も全て「フィクション(物語)」だったと言う事でよろしいでしょうか。

さて、しっかり包んだつもりのワタシの「リアル(真実)」は見つけられそうですか?