【解説編】#3「赤い花」

 # 2『そよ風』の【解説編】で「~作詩って時に自分で言葉にしておきながら、なぜそんな言葉を紡いだのか説明が出来ない感情があるのです」と書いたところで、「感情を言葉にする」ということの限界について語りたくなり、そういうもどかしさを込めて書いたこの詩を# 3にあげてみました。
 
 この詩は作中にある通り、大学4年生も終わりに近付いた頃、何かの講義の最終日に教室からふと見た窓の外の景色から感じた想いを綴ったものです。

 書いているとおり、その時感じたその気持ちをどう表現したらいいのか言葉が見つからず、それでもその気持ちを書こうとした詩です。

 この詩を書いてからだいぶたった頃、ツイッターのRTで “ドイツ語には『懐かしい』って言葉がないらしくて日本で初めて『懐かしい』の言葉と意味を知ったドイツ人の方が「今までそういう気持ちを感じたことはあったけど、この気持ちに名前がある事に感動した」と言っていた”という話を読んで、あぁ!それな!!!と思ってしまいました。

 またまた出てくるユーミン様語録ですが、ユーミン様の『ツバメのように』という歌に「どんな言葉に託そうと淋しさはいつもいつも人の痛みなの」というフレーズがありまして。『赤い花』はそれからインスピレーションを受けたとかオマージュとかではないのですが、ユーミン様がおっしゃってる気持ちがわたしにはわかる気がして。

 結局、言葉や文字にしたところで本当の気持ちなんて表現なんて出来ないし伝えられないし伝わらないし、結局のところそんなもの誰もが感じているシンプルなものでしょう。と。

 そういう意味では言葉なんかより絵画とか音楽とか、もっと直接感情に訴える表現の方が本当の何かを伝えられているのかもしれない。と思ったり。

 わたしは小学校~高校生くらいまでかなりの読書家で、1日3冊とか本を読んでいたのですが、本を読んでいるうちに度々思ってきたのは、「結局この作者はこの1文を1感情を伝えたいが為に、何百枚もの文字を綴ってきたのでは?」ということで。(大学生くらいから小説をあまり読まなくなったのもそこに気付いた(と思ってる)ことがあるのですが。)

 自分でもミヒャエル・エンデさんや村上春樹さんに憧れて物語や小説を書いてみたりもしたのですが、伝えたい気持ちをなんとか伝えようと長文にする忍耐力?しつこさ?悪あがき?のようなものがわたしには無理で(笑)。結局のところ感情を文字にする究極の形なんて575の俳句とか短歌とかで十分じゃね?(どーせ本当のところなんて伝わらないでしょ(なげやり))となっての詩作かもなのですがw。

 この創作活動の意味にも通じる『自分の想いを伝える』ということの困難さ、そのジレンマに創作者はどう気持ちを納得させていくのか?ということについて、わたしがまたもや「おお!」となったのが、宇多田ヒカルさんの『海路』という歌の「額縁を選ぶのは他人」という歌詞でして。これに関してはアルバムのライナーノートでもヒカルさんが言及していましたが、まさにそうなんだなと。自分は自分の気持ちを元にそれをカタチにはしてみるけれど、それが他人のモノになった瞬間から、まさにもうそれは自分のモノではなく他人のモノなんだなと。創作物を表に出すとはそういう事なんだなと。

 そんなこともあって、わりと長い間、わたしは自分で書いた詩を表に出すことに気乗りがしてなかったのかな。とも思います。そんなわけなので、こうやって諦め悪く長文の解説とともに今、表に出してみてるのですね。きっと。

 ということで…『赤い花』に書いた「あの日あなたが帰らぬ人になったことを はっきり理解したとき」のことを書いた詩を# 4にあげようかな、と思っております。お楽しみ?に?

~fin

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