ギフテッドについて
──今回は中村龍海さんから横道さんに対するリクエスト。「ギフテッドの世界(特異な才能があることによるメリット/デメリット、現代日本の教育・社会におけるボトルネック、望まれる理想的な環境・条件)などについてぜひ拝読したいです」。
横道 ギフテッドについて本、エッセイ、論説などを書いてほしいという依頼を受けることはあるんですが、いろいろ交渉して発達障害児のために望ましい教育というテーマに変えてもらっています。
──なぜですか?
横道 ギフテッドというものにあんまり興味を持てないんです。基本的には並外れた学力を持つ児童のことだと思いますが、具体的な定義には諸説あって曖昧。たとえば私は子どもの頃、ギフテッドだったと思いますか?
──大学の先生になられたということは、そうなんじゃないでしょうか。
横道 私は学術研究の分野で、それなりの才能を発揮しているとは思うんですが、並外れた学力の持ち主ではまったくなかったです。小学時代の通知表では、「よい」「ふつう」「がんばろう」の三段階評価がすべてありました。中学時代の通知表では「1」「2」「3」「4」「5」がぜんぶ揃っているような子どもでした。
──それは実技系の科目が不得意だったということではなく、主要5教科もということですか。
横道 はい。英語3、国語5、数学2、理科4、社会5、体育1、音楽2、技術家庭4、美術5とか、だいたいそんなあたりでしたね。
──英語が不得意だったのは意外でした。ドイツ語の先生をやっているから、語学は得意だったのかと。
横道 読書家だったので、人の気持ちがわからないわりに、文章読解などは得意でした。むしろ国語力を鍛えることによって、自閉スペクトラム症の特性と言える定型発達者の心がわからないという問題を克服してきた人間だと思います。
それで小学校時代をつうじて国語が得意になったのに、中学に入ったら、今後は世界でいちばん影響力があるということで、英語を学ばなくてはいけないということになった。「ヘロー、アイ・アム・マイケル! ワッチュア・ネーム?」「オー、イエー。マイ・ネーム・イズ・マコト! ナイス・トゥー・ミーチュー」みたいなコミュニケーションの練習をしなければいけないわけです。
自閉スペクトラム症者なんだから、そういう標準的な社交は苦痛です。それで最初からやる気を100%失いました。自閉スペクトラム症には聴覚情報処理障害が付随することも多いのです。じつはほかの科目でも「音声は聞こえてるけど、意味はわからない」ということがよくありましたが、英語ではリスニングの試験などがあるから、この特性は致命的でした。
──なるほど。
横道 いまでは外国の学会で英語やドイツ語を使って研究発表することもありますが、やはり質疑応答はたいへんです。外国語に限らず、日本語であっても、そういうのは得意ではないんですけど。
──さっきの評点の例を見ると、数学は英語以上に苦手だったんですね。
横道 単純な計算もできないというほど深刻ではありませんが、限局性学習症(学習障害)の算数障害がはっきりあります。小学校の高学年ごろから、どれだけ時間をかけて勉強しても算数がわからなくなりました。習うことのすべてに対して、なんのイメージも湧きませんでした。
──そうだったんですね。
横道 数学ができていたら、人生がだいぶ変わっていたんじゃないかなと思います。体育の時間とともに、数学の時間はひたすら苦痛でした。音楽もひどかったですが。
──体育や音楽はなんでできなかったんですか。
横道 発達性協調運動症、深刻な運動音痴や不器用を意味する発達障害です。鉄棒の逆上がりはついにできないまま終わりました。縄跳びも連続して10回も飛べない。長距離走ではビリ争いの常連で、さらし者状態。音楽を聴くのは好きでしたが、いかなる楽器も習得できませんでした。リングベルやタンバリンを振るかぐらいしかできません。カスタネットを叩いて鳴らしてみても、テンポがおかしい。歌えば音域がとても狭く、いわゆる音痴です。
──不思議ですね。横道さんの自宅にはこんなにもたくさんのマニアックな音楽のレコード、CD、カセットテープをたっぷり揃っているのに。
横道 良質な音楽を聴きとる耳だけが発達したわけです。耳以外の体のどの部分も音楽と調和してくれません。立って歩けば簡単にどこかにぶつかり、転び、ケガをしてしまう。精神的な脳性麻痺かもしれないと思っています。
──そのように聞いていると、大学の先生になれたことが不思議に感じられてきますね。
横道 不得意なものが多いから、それらは早々に諦めて、得意な一部の特性を鍛えるためにに「全振り」したわけですね。
自閉スペクトラム症児は、ハンス・アスペルガーが言った「小さな教授たち」を連想させる子が多いですが、私もまったくそうでした。日常生活でわからないことに直面すると、執拗に調べものをしていました。当時はインターネットが普及していなかったから、毎日のように図書室や図書館に行って、疑問を解消しようと図っていました。
研究者って、そういうタイプが多いんじゃないでしょうか。「いわゆる頭のいい人」とはちょっと違っていることが多くて、頭の良し悪しよりも「疑問にとことん付きあう人」が研究者に向いている。
──では、大学や大学院の勉強は向いているわけですよね。
横道 大学に入学したあとも、1年生のときに「スポーツ実習」があって、「まだ地獄は続くのか」と思いました。ちょっとした事情で、バレーボール部の活動に参加しなければならないときがあって、あのときの私のパフォーマンスも悪夢のようだった。
でも2年生からはずいぶん快適になりました。じっくり調べてレポートを書いて、単位を取る。専門の勉強だけしていればよかった大学院時代は、黄金時代だったかもしれない。いろんな人から「天才だ」とか「将来は絶対大物になる」とか言ってもらって、鼻高々でした。
──それなら横道さんはやっぱり「ギフテッド」じゃないですか。
横道 いまでは当時のそういう言説が過大評価だったことは、明らかです。
ところでギフテッドが議論になる場面では、よく「2E」という言葉も使われますね。「二重に例外的」ということ。際立った強みと際立った弱みを兼ねそなえている。でも強みにしても弱みにしても、他者と比べて相対的にしか評価できないものですし、そういうものに私はあんまり興味が湧かないんです。私は「どうしてそんなにダメなのか」と落ちこぼれ扱いされたこともよくあるから、そういう「優等」だとか「劣等」だとかの評価を心の底からバカバカしいと思っているわけです。
──そういう価値観なら、教え子たちの成績評価って、ちゃんとできてるんですか。
横道 限定的な評価だったら簡単にできますよ。なるべく得点がばらけそうな難易度の試験を作って、その結果に応じて「秀」「優」「良」「可」「不可」を割りふれば良いわけです。そしてその評価対象とは、日本人の学生が日常的に日本語を使っている環境で日本人の教師(私)によって教えられ、習得したドイツ語運用能力のあくまでも現時点でのレベル、という限定的なものなわけです。それ以上では、けっしてありません。ドイツ語で言えば、ドイツ語圏に住んで、日常的にドイツ語を使いながら、ドイツ語を母語とする教師に習うことになれば、その学生に与えられる評価はまたぜんぜん変わってくるはずです。
たまに大学の教員が、教え子たちのうちでも際立って成績が悪い学生に言及して、ほかの教師も似たような印象だと応答したりして、「あの学生はなんてダメなんだろう」なんて口にして意気投合している場面に遭遇します。でも、その学生はそもそもじぶんにまったく向いていない分野を誤って専攻してしまっただけかもしれませんからね。転部や転学科をすれば、またぜんぜん違った評価がありえる。それなのに、そういう学生を人間として総合的に評価するような口ぶりで「ダメ」だと言ったりする。私は「ダメで能力が低いのはあなたたちのほうだと思うよ」と口にしたりして、喧嘩になります。
──口は災いのもとですね。
横道 私もそんなろくでもない諍いは若い頃ほどしなくなりました。とくに発達障害の診断を受けてからは皆無と言っても良いです。ですが、人間を一面的な能力にもとづいてまるごと否定的に評価するような言説には、どうしても我慢ならないんです。
これはまったく別の場面でも同様です。ツイッターとか2ちゃんねる(現在の正式名称は5ちゃんねる)なんかで、誰かが袋叩きにあっていると、それをやっている人たちが老若男女のいずれであろうと尊敬する必要のない人たちだと判断します。政治的腐敗のなかで生きている権力者などを叩くのは良いと思いますが。
──政治家はいいんですね。
横道 政治家はバッシングしても大丈夫です。少なくとも私にはとってはOKです。もちろん誹謗中傷や名誉毀損はダメですが。
──バッシングしてOKなのかそうでないのかの境界線がどのあたりにあるのか、よくわからない気もします。
横道 まあ、政治家くらいかなと思っています。それ以外の人たちに対しては、厳しく批判することがあるとしても、言説的リンチを集団でやってしまうのはよくないと思います。
──やや話が横道に逸れたので、話の内容をギフテッドに戻しましょうよ(笑)。
横道 そうですね。私はさっき話題にした2Eに近い(長所の部分がどれほどすごいかは別として)タイプということになると思いますが、その「プチ2E」としての私の実感では、強みを伸ばせる環境も大事だけど、弱みで苦しむことがもっと少なかったら、ほんとうに良かったということですね。
──なるほど。
横道 強みに関しては、それを鍛えるのがじぶんでも楽しいので、私はとくに支援されたわけではないとは思っているけれど、じぶんでどしどし学んで、ずんずん自分の得意分野を鍛えました。それはとても楽しい勉強でした。親や教師たちも私が得意な科目にのめりこむのを喜んでいましたね。
でも、ひとつ不満があるとしたら、私のオタク的な趣味は親からも教師からも、おおむね否定されていたという点です。クラスでもアニメオタクということで不良にイジメられ、嫌がらせをされました。でも私のオタク趣味は、学校の勉強以上に、私の研究者としての自己確立にとって本質的な意味を持っていました。オタク趣味を深掘りするなかで、歴史的に考察したり、哲学的な考察を加えたりするようになって、それが結局は私にとって横道誠という研究者の孵卵器として機能したからです。そういうことになんの予感もなく、私のマンガやアニメやゲームへの耽溺をひたすら否定し、非難していた親や教師たちや不良たちは、だいぶ愚かだったと思います。
──勉強は勉強、低俗な趣味は低俗な趣味と切りわけて考えていたんでしょうね。
横道 子どもが夢中になっていたら、それが反社会的な趣味でないかぎり、親や教師は全面的にバックアップするべきだと思います。「マンガやアニメはだめ」とか「ゲームは認められない」とか平気で言っている親や教師たちにはゾッとします。研究者の卵を破壊する行為だと思います。
──横道さんって、かなり過激に考えるほうですね。
横道 実体験にもとづいて語っているだけです。私はじぶんのたいせつな卵を、親や教師たちに破壊されないように守りぬいたことを誇りに思っています。私の「プチ2E」としての強みに関して言えることは、そんなあたりです。
弱みに関しては、あんなにも数学や、数学が関係する範囲の理科や、体育や、音楽で苦しむ時間がもっと少なかったら良かったと思っています。とくに体育なら「グループ1(運動強度・高)」「グループ2(運動強度・中)」「グループ3(運動強度・低)」みたいに分けてもらって、授業に参加させてほしかった。運動会やマラソン大会なんかも義務的に全員参加とせず、参加しない人はスポーツについてのレポートを書けば良いとしてくれたら良かった。音楽なら、歌も楽器もダメな人は音楽史を勉強しても良いとか、好きな楽曲についてのエッセイを書きなさいとかの選択肢があれば良かった。そういう「代替措置」があったら、私は体育や音楽の授業でも幸せだったと思います。
ーー数学もやらなければ、幸せでしたか。
横道 算数と数学には長らく苦しめられましたが、大学は数学が不要でも受験できるところを選べたので、恨みは小さいです。学問とテクノロジーに関する西洋史をおおむね把握しているので、数学の決定的重要性そのものはよく理解していますしね。
私は家の経済状況から国公立大学しか受験してはいけないと言われていたので、数学が不要でも受験できるところが多い私立に逃げることは、できませんでした。結局、受験先を選んだ理由は「数学が不要だったから」というのが絶対的な理由です。そうして入った大学が母校になりました。
──それで、大学に入ったあとは、そして京都大学の大学院に進学したあとも、専門の勉強に集中すれば良いから「無双状態」になったと。
横道 無双と言えば言いすぎですが、「プチ2E」の強みを充分に生かして活躍できました。弱みはもう無関係だった。学部1年生のときのスポーツ実習を除くと。
──なるほど。
横道 これが私がいま語ることのできるギフテッド問題です。
──ありがとうございます。またどなたかからさらに聞きたいことがあったら、インタビューをさせていただくつもりです。
横道 お願いいたします。