流れが速いと全体に、遅いと細部に意識が向いてくる 〜楽器の運指練習を通して〜
「テンポが上がると全体性に、テンポを緩めると細部に意識が向いてくる」
そのような気付きについて綴ります。
5月6日(月・祝)のクラシックコンサートに向けて練習を続けていますが、偉大な作曲家であるグスタフ=マーラーの大作「交響曲第5番 嬰ハ短調」をサクソフォンオーケストラで演奏する機会は大変貴重です(おそらく世界初だと思います)。
全体を通すと70分超と集中力を要する上、技巧的にも大変難しい曲ですが、個人練習はあせらず・ゆっくり・じっくりと。指定されたテンポでいきなり吹こうと思っても、音の並びを覚えないうちは指の動きがバラバラになってしまってなめらかに演奏することができません。
「急がば回れ」というのか、身体はゆっくりと細部に意識を向けて動かしているうちに全体がなめらかにつながってゆきます。この時にリラックスすることがポイントで、リラックスした状態で身体がなめらかに動くようになると意識を手放しても「自然と」身体が動くようになります(緊張していると身体はなめらかに動かないのです)。
この段階になると、テンポを上げても不思議と「速く感じない」というか、感覚の変容が起きます。細かく拍を取りながら練習していたところ、テンポを上げると拍の取り方が「ゆったり、大らかに」なります。「音を一つずつ、きっちり緻密に並べてゆこう」というより、「この時間の中に音のかたまり(フレーズ)が収まればよい」という。
この感覚が「テンポが上がると(速さを増すと)全体性に、テンポを緩める(速さが落ち着くと)細部に意識が向いてくる」という冒頭につながっています。
たとえば、なめらかに進む速い乗り物(たとえば新幹線)に乗っている時は意外に速く感じないというか、ゆったりと進んでいる感覚を覚えたり。あるいは扇風機が回り始めると「羽が速く回っている」と感じるところから、さらに速さを増すと「ゆっくり回っている」ように感じることがあるように。
どのぐらいの速さが分水嶺なのかはわかりませんが、いずれにせよ、速さを増すと(細かいことはさておき…という)全体性に意識が向いてくるように思うのです。逆に、物事の細部に意識を向けるためには、自分に流れる時間のテンポを遅くする必要がある。
そして、このような認知の変容は、物理学が扱う「相転移」に重なってくるように思うのです。水も状態によって振る舞いが変わるように、身体も置かれた状態(身体それ自身、取り巻く環境)によって振る舞いが劇的に変わるという。
自分の身体も「自然の一部」と捉えれば、自然を観察し、感じて学んでゆくことは、気付いていなかったことに気付いたり、次の一歩を踏み出したり、あるいは、慣れてしまったこと、当たり前と感じていることを新鮮に、みずみずしく感じるきっかけになるように思います。
身体を通して自然とのつながりを見出し続けてゆきたい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?