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もしも触感がなくなってしまったら?

今日は『触楽入門 -はじめて世界に触れるときのように-』(著:テクタイル)から「もしも触感がなくなってしまったらどうなるか、想像してみよう」を読みました。

「もしも触感がなくなってしまったらどうなるか?」

うーん…どうなるんでしょうか?

たとえば、何かをつかむ場面を想像してみると、UFOキャッチャーのような感じかもしれません。手が物をつかんでいる様子は目で見てわかるけれど、つかむ力加減がわからない、物をつかんでいる感じがしないというか。どこかフワフワした感覚かもしれません。

あるいは、ずっと正座をしていて足が痺れて立てなくなってしまったときも近いでしょうか。たしかに立とうとしているのですが、自分の身体を足が支えている感覚がなくてヨロヨロとしてしまう…。

このように想像してみると「世界と自分のつながりが感じられない」「浮遊している感覚」なのかもしれません。

触れて・触れられて・存在感

著者は「身体感覚を失うこと」についてオリバー・サックス博士の著書を紹介しています。

 オリバー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』には、神経炎のために触覚を含む身体の感覚(体性感覚と言います)を失ってしまった女性が登場します。触覚がなくなってしまっても、目も見え、耳も聞こえますから、一見するとなにも問題がなさそうです。友達と会い、仕事をし、車を運転することもできます。

たしかに視覚(見る)や聴覚(聞く)などができれば、コミュニケーションなどで支障はなさそうに思えます。表向きかもしれませんが。

 皮膚からの感覚は、多少は残っていたそうです。オープンカーに乗るときの気分がお気に入りで、その理由を、「腕にも顔にも風を感じて、自分には腕も顔もあるという気がするんです」と説明しています。まるで自分が幽霊であるかのように感じていたのでしょう。彼女は触覚を失うことで、自分と世界をつなぎとめるものを失ってしまったのでした。

「腕にも顔にも風を感じて、自分には腕も顔もあるという気がするんです」

何か"が"触れていると感じるとき、逆に言えば自分が何か"に"触れている。作用と反作用。周囲の環境から自分が何かしらのフィードバックを受けとることができなければ、自分の存在を感じることができない。世界と自分のつながりを感じることができない。

触れることは「つながる」こと。

生まれつき触覚がなかったら?

著者は「生まれつき触覚がなかったらどうなるか?」と問いかけます。

 触覚はあまりに大事な感覚であるせいか、生得的に触覚を持たない人の存在はこれまで知られていませんが、もし生まれつき触覚がなかったらどうなってしまうでしょう。触感なしにコーヒーカップをつかめるのか。足裏の感覚なしに歩けるのか。ご飯を食べるときの食感もないのです。それはまるで、世界そのものの電源が切れてしまって、どんなものも反応を返すのをやめてしまった、そんな感じかもしれません。

生まれつき触覚がなかったら?

例にあるように、コーヒーカップをつかめるのか、歩けるのか、ご飯を食べることができるのか。他にも、泳ぐことができるのか(水をつかまえることができるのか)、水面の上に身体を浮かべることができるのか。

「そもそも身体を動かすことができるのか」すら疑問に思えてきます。

そして「心地」とは無縁の世界に生きることになります。

着心地、食べ心地。

柔らかな毛布に包まれるときの安心感、サラサラとした生地の柔らかさ、食べ物を味わう時の食感の小気味良さ。そうした質感をひとつ一つ感じ取りながら、受け取りながら日々生きているのだな、とあらためて感じました。

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