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子どもと大人で世界の見え方が異なる一つの仮説〜人は身体で空間を尺度化しているということ(知覚的定規仮説)〜

今日は身体と知覚の関係性における「知覚的定規仮説」「知覚の再体制化」に触れました。

知覚的定規仮説とは「人が身体を"モノサシ"として空間を尺度化している」とする仮説です。

たとえば、空間の近さは「手を伸ばす」や「つかむ」という行為の限界によって尺度化されている。離れた物に手を伸ばしてつかむ状況をイメージすると、自分の腕の長さを基準として「簡単に手が届きそう」あるいは「少し近づかないと届かないかもしれない」など、空間的距離を知覚・評価しているというものです。

後で言葉を引くように、「身体のサイズが知覚に影響を与えている」ならば、「子どもと大人では世界の捉え方、知覚が異なる」と考えられます。子どもが世界を大きく見ていて、それが「創造力・想像力」の豊かさにつながっているのかもしれません。

大人になるにつれて世界に関する知識が増えてゆく一方、その知識に囚われてて自由な発想が難しくなる可能性があるとするならば、世界の知覚の仕方を子どもの頃に戻してゆく、つま「自分が小さく感じる状況や環境を作る」ことで本来持っていた自由に発想する力が甦ってくるかもしれません。

「自分が小さく感じる状況や環境」というのは物理的だけでなく、「世界にはまだまだ知らないこと、分からないことが数多くある」と認識することも含まれるのかもしれません。そう思うと、いわゆる「無知の知」というのは
「身体に根ざした世界の知覚のあり方」とつながっているように思えます。

プロフィットとリンケナウガーの「知覚的定規(perceptual-ruler)」仮説は、知覚において、環境から入力された視角を身体によって規定された単位に変換すると示唆する。したがって、同じ物理的現実であっても、われわれは異なる知覚的定規を使用するため、背が高ければ背の低い人とは異なるように世界を知覚するだろう。(中略)子どもは、計測処理において大人とはきわめて異なる大きさの定規を使っているため、大人よりも世界を大きく見ているのである。

レベッカ・フィンチャー - キーファー『知識は身体からできている 身体化された認知の心理学』

知覚にはプロフィットとリンケナウガーが表現型の再体制化(phenotypic reorganization)と呼ぶものが必要である。表現型の再体制化とは、身体のどの側面が知覚を決定するかは、その人のする行為によって異なることをいう。たとえば、先に説明した研究に関していえば、身体は投球者として世界を知覚することが必要な場合もあれば、歩行者として知覚することが必要な場合もある。

レベッカ・フィンチャー - キーファー『知識は身体からできている 身体化された認知の心理学』

こうして知覚は、表現型のどの側面が特定の目的に適切かに応じて尺度化される。投球者の場合、おそらく生理的な側面に対するエネルギーコストが知覚に影響するだろう(つまり、重いボールを投げてエネルギーを使い果たすと、知覚される距離は軽いボールを投げた場合よりも大きくなる)

レベッカ・フィンチャー - キーファー『知識は身体からできている 身体化された認知の心理学』

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