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正確であるとはどういうことだろう?〜大らかさ、遊び、あるいは余白を回復するための問い〜

「正確であるとはどういうことだろう?」

最も単純と思える例として、定規を用いて直線の長さを測る時を想像する。

まず何より、長さを測る方向に対して「完全に平行に」定規を当てなければならない。

次に、完全に平行に当てることができたとして、直線の「端から端まで」の長さを読み取る必要があるが、直線の終端は目視できる定規の一体どこまで伸びているのだろうか。

そう思うと、目視で「正確に」直線の端が定規のどの辺りに位置するのかを読み取るのは難しく、「大体この辺だろう」と割り切ることで問いに決着を付けなければならないかもしれない。

「割り切る」ということは「近似する」ということでもある。

では、「割り切らないためにどうすればいいのだろうか?」と思うと、より近付いて、すなわち直線の端を「拡大して」観察することかもしれない。

これは、目視できる単位(たとえばミリメートル)よりも細かい単位で測定すること、スケールを小さくすることとも言える。

では、どこまで単位を細かくすれば、直線の端が定規のどの辺りに位置するのか「正確に」特定できるのだろうか?

と、考えてゆくと、寸分違わぬ「厳密な一致」という意味での「正確性」が果たして存在するのだろうか、と思えてくる。

次に「誤差」を「ゆらぎ」と捉えるとすると、何が見えてくるだろうか?

つまり、定規が「完全に」真っ直ぐではなくて、どこかで「歪みがある」という状況である。

この状況では、直線が完全に真っ直ぐだとしても、「完全に平行に」定規が当たらないため、正確な長さを測ることができない。

「何かを観察する」という時、あるいは「何かを認識する」という時、そこにはいつも「誤差」や「ゆらぎ」が伴っているという姿勢を忘れないようにしたい。

人と人の関係性の中では、自分も他者も心身の状態は常にゆらいでいるし、取り巻く環境もゆらいでいる。

たえずゆらぎ、流動的な世界において「正確であること」「厳密であること」あるいは「安定していること」とは一体何を意味するのだろう、という問いを立ててみる。

その問いには「唯一無二の正解」がないかもしれないけれど、人が本来的に有している「大らかさ」や「遊び」、あるいは「余白」を取り戻すきっかけになるのではないか、と思えてならない。

次には近似の意義に関する意見の齟齬が問題となる。学者が第一次近似をもって甘んずる時、世人はかえって第二次近似あるいは数学的の精確を期待する場合もあり。これは後に詳説する天気予報の場合において特に著し。かくのごとき見解と期待との相違より生ずる物議は世人一般の科学的知識の向上と共に減ずるはもちろんなれども、一方学者の側においても、科学者の自然に対する見方が必ずしも自明的、先験的ならざる事を十分に自覚して、しかる後世人に対する必要もあるべし。

寺田寅彦『万華鏡』

さて従来の科学の立場より考えて、すべての主要原因が与えられたりと仮定すれば結果は常に単義的に確定すべきか。これはやや注意深き考慮を要する問題なり。いわゆる精密科学においても吾人は偶然と名づくるものを許容す。これ一般に部分的の無知を意味す。すなわち条件をことごとく知らざる事を意味す。いかなる測定をなす際にも直接間接に定め得る数量の最後の桁には偶然が随伴す。多くの世人は精密科学の語に誤られてこの点を忘却するを常とす。

寺田寅彦『万華鏡』

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