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"生きている"ということ、それ自体が生きている〜循環と配置〜

生物が「生きていること」の根幹には「物質の循環」があります。循環とは「円環的な動き」です。そして、動の対として静がある。物質の循環の対となるのが「物質の配置」です。

肉眼でやっと見えるかどうかの大きさの多細胞生物「クマムシ」は特殊な生態を持っており、乾燥するとカチカチの状態に縮こまります。この状態は「乾眠状態」と呼ばれますが、驚くべきことに、この状態のクマムシは長い年月が経過した後でも、水を与えて温度を上げると再び動き出すことが確認されています。

この長生きの秘密は「物質の配置」にあると考えられており、乾眠状態に入る時に水分の代わりにトレハロースという糖を作り、トレハロースの中にクマムシを形成する高分子が同じ位置関係では貼り付くそうです。

すなわち、生きている状態での物質の位置関係が乾民状態でも保存され、水を与えることによってトレハロースが栄養源となって再び代謝が始まり、動き始めるとのこと。これぞ生命の神秘!

水があるところに流れがあり、流れがあるところに循環がある。水が失われて流れが止まると、そこには静的な並び、配置がある。

動いたり、止まったり。循環と配置が「生きていること」を支えています。

「人生」もまた、常に私と誰か、何かとの関わり合いの中で紡がれてゆく。「何に、どのように囲まれているか?」という配置と、「どのようにつながり合っているか?」という相互作用的な循環によって紡がれています。

不思議な表現ですが、「人生」それ自体もまた「生きている」ように思えると同時に「生きている」ということは「生きていること自体をも包み込む」概念のようにも思います。

ふと、デザイナーの原研哉さんが著書『デザインのデザイン』で、デザインという概念の対象がデザインそれ自体にも広がっていることに言及していることと重なったのでした。

概念それ自身を包み込む概念の奥行きに、とても心が惹かれるのです。

タンパク質をはじめ、地球上のさまざまな高分子がランダムに動いている状態の時、ある物質たちがある位置関係になったとする。そして、その瞬間に互いを認知して反応し、ぐるっと回るようなコミュニケーション系ができあがったとしよう。たとえば物質の出入りを伴いながら、AがBになり、Cになり、DになってAに戻るという、再帰システムのような系ができたとする。これは一種の閉鎖系となり、とりあえず同じことを繰り返すだろう。閉鎖系ができた後、今度はDの後にさらにEがくっ付いたり、あるいはDの代わりにPが入ったりといった変化をしながら、生物は徐々に変わっていった。これがオートポイエーシスのシステムの始まりなのではないだろうか。

池田清彦『初歩から学ぶ生物学』

もう一度クマムシの例を思い出してもらいたい。乾眠状態のクマムシにあるのは物質の配置だけである。それがエネルギー源を得ると生き返るということは、生物とは究極的に物質の配置のことではないか。生物は、もとあった、あるいは誰かが与えたルールに則って動いているわけではなく、物質同士がある配置関係になった時に、自ずとそこでルールを作ってしまったと考えられる。このように考えれば、ルールを作り上げる神や創造主のような存在は必要なくなる。物質と物質のある特殊な配置をもとにして、オートポイエティックなシステムを作り出してきた系がすなわち生物と呼ばれるものなのだ。システムは一回できあがれば、再帰システムによって循環し、壊されない限りは続く。生物はそのように「生きている」ということを開発し、それを今日までずっと保ってきたのである。

池田清彦『初歩から学ぶ生物学』

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