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【Book Review:3】 "文字を通じて、自分の中に世界を再構築する"ということ。

1. はじめに

目に留めてくださり、有難うございます。

このNOTEでは、私がある本と出会うことで「それまでの自分の思い込みがどのように壊れたのか」あるいは「何かと何かがどのようにつながったのか」などについて、感じたことを綴りたいと思います。

 今回は「漢字の成り立ち」について書かれた本を読んで感じたことを綴ります。

2. 今回取り上げる本

<目次>
序章 :漢字の歴史
第一章:「馬」のたてがみ、「象」の鼻
第二章:「本末」は、転倒している
第三章:「人」は、一人で立っている
第四章:古代文明の「宮」殿、馬「車」
第五章:意外な親戚、「同源字」
第六章:他人のそら似、「同化字」
第七章:古代人も迷った、「字源説の変化」
終章 :タイムカプセルとしての漢字

みなさんは、どのようなことが思い浮かんできましたか?

例えば、私は「人という漢字は二人の人が支え合っているのではないのか?」と無性に気になりました(筆者によれば、元は「一人で立っている人の姿」だそうです)。

目次から本の内容を想像してみたり、思い浮かんできた何かについてほんの少しだけでも自分の心と時間を配ってみるのも、本の楽しみ方の1つだと思っています。

3. なぜこの本を手に取ったのか?

前回は書籍「日本語はなぜ美しいのか」を取り上げました。

「言葉の本質は発音体感にある」ということ、そして、「日本語は子音の持つ発音体感、母音の持つ発音体感が組み合わさることで、感性構造を生み出している」ということに触れました。

日本語を語る上では、漢字と仮名も欠かせません。

特に「漢字」は、(もちろん全てとは言いませんが)そのカタチから実像がイメージできるような気がしませんか?

漢字には、どんな成り立ちがあるのだろう?
それぞれの漢字は、なぜそのようなカタチになったのだろう?

「漢字の成り立ちを理解することで、発音体感だけではなく、文字のカタチに体現された日本語の美しさを感じることができるのではないか」と思い、この本を手に取りました。

4. 感じたこと

①ルーツを辿り本来の意味に触れることは価値がある、ということ。

『漢字の歴史はきわめて長く、約四千年にわたって使われ続けてきた。殷王朝の甲骨文字や西周王朝の金文、秦王朝の篆書(てんしょ)などをへて、現在の漢字(楷書:かいしょ)が作られたが、その長い歴史の中で、漢字の字形は大きく変化してきた。』

書籍では様々な漢字の変遷が例示されている中で、私がとても気に入っている「竹」という漢字の変遷を本記事の冒頭に載せました。

私は「竹」という漢字がとても好きです。

なぜなら、「竹」という文字のカタチは、私に「明るく穏やかな光の差し込む竹林の清廉な空気、静謐さ」を感じさせてくれるからです。

たしかに「竹」という漢字はどこか「竹っぽい」と思ってはいたのですが、しかし「何がそう感じさせるのか」を言語化するまでには至っていませんでした。

あえて言えば「天に向かって伸びた竹の幹と垂れ下がる葉」だと思い込んでいましたが、今回もその思い込みは見事に打ち砕かれました。

物事の見方の解像度が浅い自分に反省すると同時に、原点である「殷」の時代の人々の解像度の高さ、そして(文字のデザインとも言える)抽象化の妙技に感銘を受けました。

なるほど、「竹」という漢字は「六枚の竹の葉」から始まったのですね。

あらためて竹の葉を思い浮かべてみると、なるほど、スッと整った佇まい。

こうしてルーツを捉えることによって、竹という漢字のカタチに秘められた美しさが、より活き活きと感じられるようになった気がします。

と同時に、「文字を通じて、世界を自分の中に再構築している」のだな、と思ったのです。

②「抽象化する。シンプルにする。」ことの意味:誰もが使える・意味を共有できる・自然に拡がっていく

「終章 タイムカプセルとしての漢字」から引用します。

『漢字は、古代文明から継承され、かつ現代まで体系が維持された文字として、世界で唯一の存在である。
(中略)
漢字以外の古代文字は、担い手の文明が衰退することで使われなくなっていった。一方、漢字は、担い手の王朝こそ殷・周・秦...と変わったものの、中国の文明そのものは継続した。そのため長く使われ続け、現代まで残ったのである。
このように、漢字は古代文明から現代まで保存されたのであり、そのため一部には、現在の形から古代文明の様子がわかるものも存在する。漢字は文字としての体系が残っているので、元々同じ形だったものは楷書でも共通形になっていることが多く、楷書だけでも古代の文化が理解できるのである。
簡単に言えば、漢字は一種のタイムカプセルである。』

この箇所を読んで、感じたことを綴ります。

殷の時代に端を発する漢字が脈々と引き継がれ、現代にも残っているという事実は、「漢字を通じて、過去の人々と現代に生きる私達がつながっている」のだなと。

それは、漢字に備わった「意味の保存」という機能のおかげだなと。

漢字の始まりは、事物の特徴を観察し、他の物と何が違うのか、その個性を抽出した上で、抽象化するということでした。

まず、シンプルに抽象化・記号化することで、「誰もが使える(書ける)」ようになります。

誰もが書けるようになると、書いた文字と現実の物事に照らしながら、文字に込められた意味を自己の中で復元することで、「意味の共有」がなされます。

言い換えると、文字の受け手が意味を正しく復元できないと、コミュニケーションが成立しません。(同じ漢字を見ているのに、お互いが参照している事物が異なる、あるいはそのスケールが異なるなど...。同床異夢にもつながるかもしれません。)

そして、誰もが使える・意味を共有できるものは、個人や共同体の間で「自然と拡散・定着していく」のだと思いました。

ちなみに、かのスティーブ・ジョブズもシンプルさを追求した人物ですね。

『私たちはOSを探求してきた。OSのあらゆる部分を点検し、どうやったらシンプルに、そしてパワフルにできるか、同時に問いつづけた』
                          スティーブ・ジョブズ

5. お礼、次回取り上げる本(「わかる」とはどういうことか - 認識の脳科学)

今回は「漢字の成り立ち」と「文字の美しさ」について思うことを綴りました。

と同時に「私たちは文字の可能性を引き出しきれていないのではないか」また「私達が生きる現代において、もしかすると過去の人物が想定していなかった文字の再発明が必要なのかもしれない」とも。

なぜかと言うと「私達を取り巻く環境が変化している」からです。

例えば、テクノロジーが発展し、その時代のテクノロジーに最適化した人間は、過去の人間が想定していなかった事物に触れているわけで、未だ文字化されていない事物や感情などが存在するのではないか、と。

さて、今回の記事を書きながら不思議に思ったことがあります。

なぜ自分は、人は文字を見て「それが何を意味するのか」わかるだろうか、と

そもそも「わかる」とは、どのようなことなのでしょうか?

この点については、「「わかる」とはどういうことか - 認識の脳科学」(著:山鳥重)の中で「知覚心像」「記憶心像」という文脈で触れられています。

次回はこの本を読んで感じたことを綴りたいと思います。

最後までお付き合い下さり有難うございました。


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