見出し画像

「編集」=「一見異なるモノゴトを連想的に組み立てる」

今日は『匠の流儀 - 経済と技能のあいだ』(編著:松岡正剛)より「第2章 日本の経済文化の本来と将来3. 編集的日本像」から「編集とは何か」を読みました。それでは一部を引用します。

 ただ、改めて「日本」を見つめ直そうと考えたとき、私はそこでメソッドを加えて見てみようと考えました。つまり、編集という方法によって日本を見ようとした。「編集」とは何かということを一言であらわすと、一見違っていると見える別々のジャンルや別々のコードのものを組み合わせて、対角線状に並べながら、新しい組み立てをおこしていくというようなことです。
 たとえば、「サキ」という古代語があります。何となく見当が付くように、先端とか先っぽとか、そういう意味です。もう少し正確に言うと、エネルギーがいっぱいになって、それ以上進めない状態が「サキ」何ですね。だから古代語の世界では、「咲」も「酒」も「坂」も「柵」も同じ仲間です。つまり「サキ」あるいは「サカ」「サケ」という言葉から、いろんなイメージに広げていくことができるわけです。じつは人間の脳でも、これと同じように、いろんな言葉やイメージが連想的につながって呼び出しが可能になっています。
 残念ながらいまのコンピュータ技術では、「咲」と「酒」と「坂」はちがうカテゴリーの言葉として分類してあります。『会社四季報』がそうであるように、植物に関係した「咲」と、飲料の「酒」とを同時に呼び出すことができないのです。私が考えている「編集」というのは、情報がこのようにカテゴライズされてしまう以前の、この「サキ」のようなもの、言葉やイメージの母型にあたるものを、いろんな時代の中から拾いながら、新たにつなげていくことなんですね。これは分母的な情報をしっかり組み立てておいて、そこに自在に分子的情報をさまざまに交差させていくという方法です。

何かを眺めたり、読んだりする。何かを口に出してみる。身体を動かしてみる。ある個別具体的なテーマに意識を向けているとき、なぜかは自分でも分からないのですが、まったく違うテーマが思い返される時があります。

そのまったく違うテーマに意識を集中させるというよりも、二つ(あるいはそれ以上の)テーマの間をいったりきたりして、それらに「通底する何か」を探している。

あるいは、どちらかのテーマから何かを「借用」し、その借用してきた何かを通してもう一つのテーマを眺めている。こと、気持ちや身体がリラックスしているとき、肩の力が抜けているときに、そのような状態に入ることがあります。

「編集とはなにか」という問いに対して、著者は「分母的な情報をしっかり組み立てておいて、そこに自在に分子的情報をさまざまに交差させていく」と述べています。

樹々が枝分かれして成長する上で幹があるように、思考の共通基盤(となる概念・言葉など)を築くこと。その共通基盤があることで、さまざまな具体を縦横無尽に交差させることができる。

そのために何が必要だろうか、と考えると「起源」をたどる、「具体を抽象化し、抽象化した状態で共通項を探す」などがあげられると思います。

著者の「編集」の考え方に触れながら思い出したのは、物理学者で同期現象などの非線形科学の第一人者である蔵本由紀さんが『新しい自然学』の中で述べている「述語的統一」というモノの見方でした。

 一方、「どのように」を基軸に現象世界を見ることもできる。これはモノと属性との間の主従関係を逆転して、さまざまな異なったモノが同一の状態に「於いてある」と見る見方である。夕陽もバラの花弁も炎もすべて赤いという状態に於いてある。「赤い」という性質が一つの場所を作っていて、そこに夕陽やバラや炎が包まれるというイメージである。個物が互いにばらばらではなく、さまざまなつながりをもってこの世界を構成していることが知られるのはこのような見方、つまり述語的統一によっている。

「何か」という視点で世界を分節化して捉えるのではなく、「どのような」という共通の状態の中に数多の「何か」を包みこむ。分けて考えない。

ある言葉に触れて、自分の中に眠っている別の言葉がふと飛び出してくる。これも連想的なつながりなのかな、と思ったのでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?