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何をもって「先進的」といえる?

今日は、福田恆存氏(評論家)による『人間の生き方、ものの考え方』から第2章「近代化とは何か」より「「近代化」の歴史的必然性」を読みました。では、一部を引用してみます。

「近代化」という言葉は非常に曖昧な言葉であります。曖昧だけれども皆何となく使っている。例えば明治時代には文明開化という言葉がございましたが、それと今日近代化と言っているのとは大した差がないのではないかと思います。戦後いわゆる第二次産業革命とか、技術革新だとかいうことが言われるようになりましたが、近代化という言葉は、イギリスの産業革命以来の技術の進歩に伴う現象を指している言葉だと解釈していいのではないかと思います。
ここに文化という問題が当然出てまいります。封建時代と今日を比べてもよろしいし、後進国と先進国を比べてもよろしいのですが、それぞれの時代、それぞれの国に文化があります。文化というものは質の差であって、決して量で優劣をはかることは出来ないものです。後進国、先進国というような分け方は、あくまで近代化というものを基準にした量による分類法です。
それで、文化の点では、私たちは一向後進国とは思わないし、そういう後進国、先進国という言葉を文化の面で適用することはできないのです。文化というのは、それぞれの民族なり時代なりがもった生き方の様式であります。それには優劣は全くないのであります。もっと美学的な問題であり、あるいは哲学的・宗教的な問題であって、広い意味での技術に係わる近代化の問題とはおのずから別箇のものであります。

「後進国、先進国というような分け方は、あくまで近代化というものを基準にした量による分類法です。」

この言葉が印象的でした。

国を二つに分類するとき、現在は「後進国」ではなく「発展途上国」と表現されます。もちろん先進国・発展途上国という分類は、何かを判断する際に有用であると思う一方で、個人的にはあまり好きではありません。

「近代化というものを基準にした量による分類法」であると著者は述べていますが「近代化」というのは「科学技術がどれだけ生活に浸透しているか」というモノサシで測られる現象であると思います。

一方、「そもそも先進(的である)とはどういうことだろうか」と考えてみるとき、はたして(科学)技術が進んでいる・浸透しているだけをもって、先進的であるとして良いのでしょうか。

「文化というものは質の差であって、決して量で優劣をはかることは出来ないものです。」と著者が述べていますが、技術的な面だけではなく、人間的な側面・文化的な側面も考慮する必要はないでしょうか。

(科学)技術は進んでいるかもしれないけれど、それを使う人間の側が技術に振り回されているとしたら、はたして「先進国」と言えるのか疑問です。

人間が技術に振り回されるのではなく、「人が人であること」を中心とする人間的生活に技術が調和している国。必ずしも科学技術が進んでいる必要はなくとも等しく先進的と言ってもよいのではないでしょうか。

「先進」と「発展途上(後進)」という言葉の裏側にある、優劣の付け方に意識を向けることの大切さを、あらためて。

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