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触感と触覚。主観と客観。

今日は『触楽入門 -はじめて世界に触れるときのように-』(著:テクタイル)から「あたたかい手と冷たい手、人に信頼してもらうにはどちらがいい?」を読みました。

ふれるにまつわる言葉。触感と触覚はどのように違うのでしょうか。著者は次のように述べています。

皮膚感覚を「触覚」と呼ぶのに対し、本書では「触感」という言葉を、触ることによって生じる主観的な体験を指して使うことにしたいと思います。

触感は主観的。だとすると触覚は客観的?
客観的であるとはどういうことでしょうか。

 実を言うと、この意味での「触感」は、科学では扱いにくい対象です。客観性を重んじる科学は、「私が感じているこの感覚」という、外に取り出すことができない主観的なものを取り扱うことが得意ではありません。科学が扱うのは、皮膚、神経、脳、言語表現、行為といった、だれもが観察できる、外の世界にあるものです。主観を定量化する心理学的な手法も発達してきていますが、それでもなお、主観的な体験と客観的な科学との間には、橋を架けることができないギャップが横たわっています。

客観的な対象とは「だれもが観察できる、外の世界にあるもの」のこと。
言いかえると「人それぞれであってはならない世界」のこと。

『新しい自然学』という書籍の中で「科学とは、観察語と論理語によって語られる意味体系である」とも述べられていました。

同じ方法で観察すれば、誰もが同じように認識できること。その観察を論理でつなぎあわせて、意味を形づくってゆくこと。共通のモノサシとも言えるかもしれません。

一方、「観察」という行為には観察の対象と、それを観察する主体(人)という関係性が不可欠です。その観察する主体がどのように受けとるか、感じとるかはどこまでも主観の世界が入り込むように思います。

主観と客観を相反する概念のように区別していますが、そこには明確な線が引かれているのでしょうか。

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