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佇まい、からだ、そして全体性

「佇まい(たたずまい)とは何だろう?」

"佇まい"は極めて深い奥行きがあり、何となくは分かるけれども、いざ説明しようと思うと難しい言葉の一つではないかと思います。少なくとも、ある特定の部分だけを切り取って語ることはできず、様々な要素が重なり合った全体性から自然とにじみ出てくる。それが佇まいではないかと思います。

たとえば人における佇まいを考える場合、抽象的な人物像からは"佇まい"は出てこないと思います。私の記憶の中から具体的な人物を、そしてその人の姿勢や表情、所作・立ち振る舞いなどを思い浮かべてみる。

そこから自分が受け取った、感じ取った印象の総体として佇まいの輪郭が浮かび上がってくるわけです。佇まいにはどこか「繊細さ」が含まれていて、「醸す」とか「香る」という言葉がなじむかもしれません。

さらに、佇まいを人以外にまで拡張してみようと思うと、たとえば「陶器の佇まい」が思い浮かびます。世界には様々な陶器が存在していますが、一つひとつに佇まいがあり、それは色味や手触り、重さや手に取りやすさなど、多次元的な要素の重なり合いから醸される、あるいは香りがします。

佇まいは、その対象よりもむしろ、部分を切り取ることなく「ありのまま」「あるがまま」を感じ取る、それそのものを受け取ることのできる人の感受性に下支えられているのだと思います。そして、その感受性は「からだ」が内に閉じず、外に向かって開かれている必要があるのではないか、と。

人もモノも分け隔てなく包摂する「佇まい」は、人が本来持っている全体性を受け取る感受性を引き出すため、回復するためにあるのかもしれません。

時折、佇まいについて問うこと、語ることの大切さを感じます。

私は道行く人を見ているだけでも飽きることがありません。背中を曲げて歩く老人、ベンチで頭を抱える人、明るく遊ぶ親子、ダラダラと歩く若者、虚ろな目をしてプラットホームに立っている女性……どんな人を見ても不思議な存在感を放って止まない。人のたたずまいとは人の生そのものであり、人はどれほど落胆し、人生に絶望していたとしても思考を止めることのできない存在であるがゆえに、どうしてもエネルギーを放ってしまう。目の動きひとつ、指の動きひとつ、歩き方ひとつでも、人は震えが来るくらい感動的な存在感を放つことがある。アニメにはそれがない。

小池博史『からだのこえをきく』

しかし、人との関わりを人が煩わしく感じ、人が人を厭うようになれば「からだ」は他と密であることを拒否するようになり、他者は不在化していく。さすれば、必然的に濃密さを持つ現存在である人間より、線で描かれた程度の薄さを持った人間もどきの方が心地よくなる。日常の社会の中では濃密な関係を作らざるを得ないから、個人に戻ったときくらいは、あっさりとしたアニメの登場人物と関わりたいと願うメンタリティが醸成されていった。

小池博史『からだのこえをきく』

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