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「生きるための負担を社会が引き受ける」ということ

ナタリー・サルトゥー=ラジュ(哲学者)の著書『借りの哲学』の第1章「交換、贈与、借り」より「<贈与>と<交換>と<借り>の関係」と「家族における<貸し借り>を共同体が引き受ける」を読みました。

テーマは「借りと社会」について。一部を引用してみます。

それは「あらかじめ相手を信頼する」ということだ。「貸したものが返ってきて、初めて相手を信頼する」、あるいは「借りたものを返して、初めて信頼される存在になる」のではなく、「相手に贈り物をすれば、きっとそれがなんらかのかたちで返ってくる」と、返ってくる前から、お互いに相手を信じることなのである。
だが、私たちが目指すのはもっと相手を信頼する社会である。また、相手のほうも私たちを信頼する社会である。与えるほうは、いつかそれが返ってくると信じ、与えられたほうはそれ以上のものを返す。そうして、時によって、<貸し>をつくったり、<借り>をつくったりしながら、関係を続けていく。この関係には終わりがない。こうした信頼関係が続いていく社会を私たちは目指すべきなのだ。自分が何を与えられたかを十分意識し、そのお返しに何を与えるかを考える。その意味で、ひとりひとりが<借り>があることに自覚を持ち、その<借り>に対して責任を持つ社会を目指すべきなのである。
もちろん、こういった信頼をもとにした関係は、現代でも「家族」という制度のなかに残っていて、子どもが小さいときは親が面倒を見て、子どもが大きくなったら、反対に親の面倒を見るというかたちで、<借り>を返すことが行われている。あるいは、親に直接返せなかったら、自分の子どもの面倒を見るかたちで次世代に返すということもされている(財産なども、そのかたちで親から子へと受け継がれていく)。それはつまり、個人が生きるための負担を家族の誰かが担い、その<借り>を今度は負担をしてもらった個人が家族の誰かに返すということなのだが、こういった負担を家族がすべて引き受けるのは、負担をするほうにも、そこで生じた<借り>を返すほうにも辛い。そこで、「その負担を家族の代わりに社会が引き受けたらどうか?」というのが、私たちの提案である。

「それは「あらかじめ相手を信頼する」ということだ。」

この言葉が印象的でした。

「信頼とは何だろう?」という大きな問いがあり、そこには「信頼はどのように生まれるのだろう?」という問いが結びついています。

著者がいう「あらかじめ相手を信頼する」とは、「見返りが返ってくる」との期待に基づいています。「見返りが返ってくる」という期待を持たずに「あらかじめ相手を信頼する」ことはできないのでしょうか。

また、著者は「終わりのない貸し借りのなかで、信頼関係が続く社会を目指すべき」と述べていますが、この言葉に触れたとき「そうかもしれない」と思う気持ちと「どこか窮屈さを感じる」という違和感のようなものが混じりあった気持ちになりました。

もちろん「借り」を意識することは大事だと思うのですが、一方で「借り」を意識し続けるというのは、どこかで「相手に囚われている」というのか「負い目を感じ続ける」ということでもあるように思います。

「貸し借りがない状態」というよりも「貸し借りを意識しなくて済む状態」もあるからこそ、人は自分の歩を進めることができるようにも思うのです。

その意味では「その負担(生きるための負担)を家族の代わりに社会が引き受けたらどうか?」という著者の言葉は響きました。

「貸し借りの輪」が循環し続けて、全体として調和し、バランスしている。

「誰が誰に貸しや借りがあるのか」分からないほど、貸し借りの偏りがない状態。そのような社会の姿が思い浮かんできました。

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