「シンプルさ」とは何だろう?
今日は『日本のデザイン』(著:原研哉)から「シンプルはいつ生まれたのか」を読みました。
昨日読んだ内容を少し振り返ると「デザインとは何か?」という話にふれました。インダストリアルデザイナーである柳宗理氏の薬缶が題材として提示されました。石膏の模型を何度も手直しして造形された氏の薬缶。作って終わりではなく、使う人のことを想像し、その人の生活を想像し尽くした先に生まれる「用の美」。
「デザインとはものを介して暮らしや環境の本質を考える生活の思想である」こと。そして、作ることだけでなく「気づく」ことの中にもデザインの本質があること。そのことを教わりました。
さて、今日読んだ範囲では「シンプル」というテーマが展開されています。
シンプルさと「全体を全体のまま捉える感性」
著者は「シンプルさはいつ誕生したのか?」という問いを投げかけます。
シンプルとプリミティブ(原初的)は異なる。複雑さや冗長さ、過剰さとの対比において認識されるのがシンプルという概念。だとすると、シンプルとは複雑なもの、絡みあったものを解体して再構築する営みということかもしれません。
プリミティブは起点であり複雑に向かって発散してゆく力をもつ。シンプルは終点であり簡素さに向かって収束してゆく力をもつ。そう考えると、「本当に大切なことは何だろう?」と問いとともに本質を見抜く力が必要なのかもしれません。
ふと、全体を部分に分解し、部分に関して理解して再構築する。そのような方法でシンプルにたどり着けるのだろうか、という問いが浮かんできました。シンプルには「全体を全体のまま捉える感性」も求められる気がするのです。
合理性とは「理にかなう」こと。理とは何か?
著者は「近代市民社会の到来によって、人が自由に生きることを基本に価値基準が再編された」と言います。
物の意匠・造形は「機能性」だけではなく、国・社会・文化に埋め込まれてシンボルステータスとしての意味をもつ。造形や意匠の複雑さがシンボルと結びついていたのですね。
しかし、近代市民社会の到来によって合理を追求する機運が生まれた。実用を追求する中で不要とされる要素が削ぎ落とされていく。必要最低限で最大の機能を発揮するための最適、調和の探索。それは定量的な基準で測られるばかりでなく、最後には作り手の「これがいい」あるいは「これでいい」というある種の主観的「モノサシ」によって決められるものかもしれません。
形というのは最初から決まっているのか、あるいは帰結として決まるのか。合理というのは「理にかなっている」ということですから、であるならば「理とは何か?」という問いが先にあるはずです。
「理とは流れである」と言えるのではないか、と思うのです。淀みなく流れるものには違和感がない。引っかかりがない。その引っかかりや違和感を削ぎ落としていく営みが「シンプル」ということだとするならば、自分の中に「自然と流れてゆく感覚」をもつ必要があるのではないか。そのように思うのでした。
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