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デザインは「ものを介して暮らしや環境の本質を考える」生活の思想

今日は『日本のデザイン』(著:原研哉)から「柳宗理の薬缶」を読みました。

昨日読んだ内容を少し振り返ると「技術の進歩の裏側には人の存在がある」という話にふれました。クルマの普及は人の移動、生活を変えてきたことは言うまでもないように、進歩した技術が浸透して社会が変わっていきます。そのような中で著者は「技術のみが環境を変えるのではない」と説きます。

「こんなふうに移動したい」という人の欲望が技術の受け手となり、技術が社会に浸透する。また、技術は自己成長するネットワークのようなもので、様々な領域での知の蓄積が相互に触発しあい重なりあっていく。そこには人の意志や好奇心がある。社会の変化はヒトとヒト、ヒトとモノ、モノとモノの「共進化」だと捉えられるのではないか。そして、交わるところ、たえずコト(事)があるわけです。

さて、今回読んだ範囲では「」というテーマが展開されていました。

デザインは「ものを介して暮らしや環境の本質を考える」生活の思想

デザインという言葉は日常的によく聞くと思いますが「では、デザインとは何だろう?」と問いかけられると一筋縄ではいかないように思います。著者は柳宗理氏のデザインした薬缶(やかん)をあげて、この問いに答えます。

柳宗理のデザインした日用品が静かに注目されている。たとえば薬缶。何の変哲もない普通の薬缶である。しかし実に堂々として、薬缶はやっぱりこれに限る、と思わせる説得力に満ちている。(中略)柳宗理のアトリエを一度だけ訪ねたことがあるが、そこには石膏で作ったプロダクツの模型がたくさん並んでいた。それはコンピュータによる形態シミュレーションなど用いないで、ひたすら原寸で石膏模型を作り、それをひたすら手で撫でさすって何度も修正を加え、用途になじむ形を追求した痕跡そのものであり、その丁寧な姿勢とぶれのない信念に、頭が下がる思いがした。そういうものが再び市場で支持されはじめているというのは、喜ばしい兆候である。

柳宗理デザインのやかんを調べてみると、イメージどおりのやかんでした。「やかんといえばこのカタチ」というか、全体的に丸みを帯びていて安心感があります。取っ手も手にスッとなじんで、持ちやすそうです。

注ぎ口はやや短くて太いのが印象的です。もう少し細長かったらどう見えるかを想像すると、本体の膨らみと不釣りあいかもしれません。この注ぎ口が全体のふっくらした感じと調和していて温かみがあります。

注ぎ口がこの長さだと「注ぎやすそうだな」とも思います。やかんで何かを注ぐとき、頭の中で注がれる中身の気持ちになるというか「あとどれぐらいで注ぎ口から出てくるかな」と考えるのですが、この注ぎ口はおそらく丁度よいタイミングで適量が注がれる気がしました。あくまでも私的なイメージです。「実用性」を考え抜いた先にある「用の美」を感じます。

デザインとはスタイリングではない。ものの形を計画的・意識的に作る行為は確かにデザインだが、それだけではない。デザインとは生み出すだけの思想ではなく、ものを介して暮らしや環境の本質を考える生活の思想でもある。したがって、作ると同様に、気付くということのなかにもデザインの本質がある。

「デザインとは生み出すだけの思想ではなく、ものを介して暮らしや環境の本質を考える生活の思想でもある」という言葉が印象的です。以前に考えた「モノをプロセスとして捉える」ことにも通じます。モノはモノそれ自体で存在するのではなく、日常生活の中にとけこんで相互に影響を及ぼしあう。

モノに触れることで、使うことでヒトの考え方や行動が変わる。人の考え方や行動が変われば、必要とされるモノのあり方も変わってくる。ヒトとモノの共進化ですね。ヒトはモノをデザインして、デザインしたものによって自らをデザインする。

「作ると同様に、気付くということのなかにもデザインの本質がある」との言葉にも大事なことが含まれていると感じます。それは「気付く」ということ。

モノが生活の中にとけこむということは、とけこむ時間と空間があるということ。余白がないところに無理して入れようとすれば、それは他のモノとの調和が乱れかねない。その余白に気付けば「スッと」とけこんでゆく。逆に言えば、生活にとけこんでいないモノに気付いたら、それはリデザインする余地があるということ。

モノが人の暮らしをカタチづくる

著者は「ボールを丸くする技術が球技の上達を促す」ことを例にあげ、それは「ものと暮らしの関係」にも通じると説きます。

球と球技の関係は、ものと暮らしの関係にも移行させて考えることができる。柳宗理の薬缶もそのひとつだが、よくできたデザインは精度のいいボールのようなものである。精度の高いボールが宇宙の原理を表象するように、優れたデザインは人の行為の普遍性を表彰している。デザインが単なるスタイリングではないと言われるゆえんは、球が丸くないと球技が上達しないのと同様、デザインが人の行為の本質に寄り添っていないと、暮らしも文化も成熟していかないからである。(中略)めざしたものは同じ、暮らしを啓発する、もののかたちの探求である。

「歪みのないボールをつくる」のは想像するだけでも、とても難しいと思います。歪みがあるとボールを投げたときの軌道が安定しないわけですから、その結果を身体操作にフィードバックすることが難しく、技術向上の障害になってしまう。「このように投げたら、このような速さ・軌道になる」という認識と身体操作をあわせていくわけですから。

歪みのないボールが人の球技の技術を育むように、私たちは日常的に使うモノを通して自らを育んでいる。だとすると、先に明確な未来の姿があって後からデザインが追いついてくるのでしょうか。それとも、未来の姿はモノの後から見えてくるものなのでしょうか。

柳宗理さんの薬缶は、石膏模型を何度も何度も触れて修正してを繰り返してあるべきカタチに落ち着いたことを手掛かりにすると、ありたい姿は最初に明確に存在するのではなくて、「手触り」とともにカタチ作られていくものなのかもしれません。

最初から明確なビジョン、未来像がなくてもいい。行き詰まったときこそ、自分の身体で触れて感じて考える。「手触り感」を取り戻す。そんなことを思いました。

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