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物の完璧さ < 主観的生活の完璧さ

今日はミハイ=チクセントミハイ氏(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第1章「人間と物」から「心的活動パターンとしての人間」を読み終えました。では、一部を引用してみたいと思います。

しかし、個々人がコミュニティに葛藤をもたらすことなく、目標をはぐくむことも可能である。その結果、共通の目標を追求しつつ、各自の独自な視点が目標に寄与するような人びとの統合集団ができあがる。そこでは各人の独自の視点がその目標に貢献している。コミュニティのこうした状態は均一的なものではなく、ハンナ・アレント(Arendt, 1958)のいう≪複数性≫の状態である。
ゲオルク・ジンメルは一九〇八年すでに、客観的世界 - 機械論的な力によって全面支配されていると信じられていた - が、個人から切り離され、人生が涵養過程から一種のテクニックになっていく際に生じる問題について、深遠な洞察をしている。『少なくともこれまで、歴史的発展は客観的な文化的生産と個人の文化的レベルのあいだを分離させる方向に動いてきた。近代生活の不協和 - 中でも、あらゆる領域における技術的改良と同時に進行する技術的進歩に対する大きな不満足とのあいだに見られる不協和 - のかなりの部分は、物がいっそう高度化される一方で、人間は物の完璧さから主観的生活の完璧さをほとんど得られなくなっているという事実から引き起こされている。(Simmel, 1971, p.234)』
ジンメルは、物に対する私たちの技術的な支配にもかかわらず、結局のところ私たちを支配するのは物であることを示している。人間の涵養あるいは彼の言う「主観的文化」は、物の支配、ないし哲学者ウィリアム・バレット(Barrett, 1978)が「技術の幻想」と呼んだものの中に包摂されつつある。

「近代生活の不協和 - 中でも、あらゆる領域における技術的改良と同時に進行する技術的進歩に対する大きな不満足とのあいだに見られる不協和 - のかなりの部分は、物がいっそう高度化される一方で、人間は物の完璧さから主観的生活の完璧さをほとんど得られなくなっているという事実から引き起こされている。」

ゲオルク・ジンメル(ドイツの哲学者・社会学者)のこの言葉が印象的でした。

「人間は物の完璧さから主観的生活の完璧さをほとんど得られなくなっている」とは、具体的にどのようなことなのでしょうか?

まず「物の完璧さ」と「主観的生活の完璧さ」が、それぞれどのようなことを意味するのかを考えてみたいと思います。

「物が完璧になる」とは、どのようなことでしょうか?

使い勝手が良くなること?
フォルムが洗練されていくこと?
今までにない新しい機能が増えていくこと?

ジンメル氏の言葉にある「あらゆる領域における技術的改良」が絶え間なく物の完璧さを追求する運動として取り上げられているように思います。

一方、技術的改良が施されなくとも、昔から使われ続けている物もあるのではないかとも思います。それは「物に頼らせる物」ではなく、むしろ簡素で人に「物の可能性」を探らせるような物。簡素であるがゆえに、人に使い方を創意工夫する余地が沢山残されているような物。あるいは簡素であるがゆえに、余白を埋めるような想像力が自然と働く物。

「主観的生活の完璧さ」というのは、人が創意工夫・想像力・創造力の発露によって物との関係を深めていく過程において、自分と環境(物)との間を自分らしく満たしていくようなことなのかもしれません。まるでキャンバスに絵画を描くように。「全てを塗り尽くせばよい」というものではなくて、何も塗らない下地そのものも絵の一部となるような。

「コミュニティのこうした状態は均一的なものではなく、ハンナ・アレント(Arendt, 1958)のいう≪複数性≫の状態である」という著者の言葉がありますが「複数性」という言葉はどこか「群れ」っぽいというのか。

近すぎず、でも離れすぎず。染まるけれど、染まりすぎず。

こう考えると「物との適度な距離感」というものを探ってゆく必要があるのではないか、と思えてきます。

「デジタル・デトックス」という言葉があります。もちろん、何かの目的を達成する手段としてデジタル技術を利用することもあると思いますし、何気なくスマートフォンを眺め続けることもあるかもしれません。

「道具を片時も手放すことができない」という状態はいささか健全ではないのかもしれない。物あるいは技術との間で、別に手放しても何も不安がないぐらいの距離感を探ってゆく必要があるのだろうと思います。

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