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繊細なモノが繊細だと気付いているだろうか?

今日はミハイ=チクセントミハイ(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第3章「家の中でもっとも大切にしている物」より「食器」を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。

 一五パーセントの回答者があげた十番目の物カテゴリーは、さまざまな飲食用の家庭用品を含んでいる。つまり、皿や陶磁器、カップ、マグ、シロメ皿などである。これらの物は一見すべて使用するために作られているように見えるが、ここでも実用的理由からそれらを特別なものとみなす人はほとんどいない。(中略)あげられた理由は、すでにふれてきたような、つまり人や場所とのつながり、共通の祖先や子孫といったものである。
 もともとこれは母が持っていたカップとお皿であったことを知った親族から、私にもどって来たのです。そんなわけで、これは大切なのです......それをずっと飾ってきました。
 これらの引用から、ひとつの重要な問題が浮かび上がってくる。それは、陶磁器やガラス製品のような壊れやすい物の心理的価値を説明するのに役立つ。(中略)壊れやすい物はたくさんあり、その大多数はすぐ壊れる運命にある。壊れやすいものをその運命から守るためには、少なくともそれに何らかの注意を払わなければならない。それを大切に扱い、運命という大きな力からそれを守らなければならない。このように何世代も大事にされてきた陶器カップは、カオスに対する人間側の勝利であり、穏やかにはぐくまれてきたひとつの成果であり、ある種の「誇るべきこと」なのである。

実家に帰ると、幼い頃から使っていた「食器」が食器棚の中で今もなおその形を留めていて、何だか昔に戻ったかのような懐かしさを覚えることがあります。

本書のインタビューは1977年のシカゴ都市部で行われたものです。国や文化は異なれど「食」という人間にとって欠かせない営みと対になる「食器」というモノに対して「何かしらの意味を感じるものなのだな...」と、世界を越えて共通する何かに触れた気がします。

「壊れやすい物はたくさんあり、その大多数はすぐ壊れる運命にある。壊れやすいものをその運命から守るためには、少なくともそれに何らかの注意を払わなければならない。」と著者は述べています。

たしかに「なぜ食器(特に陶器類)に愛着を覚えるのだろう?」と考えてみると、割れる」能性、儚さを含んでいるからこそ、割れたり欠けないように大切に使う気持ちを持てるかもしれない、と思いました。

私も、過去にお皿を割ってしまったことがありますが、その衝撃音と破片を目にして、自分の心も何だか砕け散ってしまったかのような感覚を覚えるのでした。

なぜだろうと考えてみると、たとえばお茶碗のように自分の手に「しっくりくる・なじむもの」を使い続けていると、いつしかお茶碗を意識しなくなるというか、自分の手とお茶碗が一体化しているような感覚になってきます。

だからこそ、自分の一部になったようなモノ(食器)が砕けるという出来事は、あたかも自分から大切な欠けてしまうような感覚に結びつくのかもしれません。

もし、食器が耐久性の高いプラスチックなどで出来ていたら「大切に使う」気持ちを覚えにくいのかもしれません。「耐久性が高い」というのは、ある意味で「粗雑に扱っても構わない」ということを前提としていると思われるからです。

繊細だからこそ、壊れないように、ていねいに扱う。

「繊細さ」という要素が「何かを大切にする気持ちを育む機会」への窓口になっているのかもしれないと思うと、「繊細なモノが繊細だと気付いているだろうか?」と我が身を振り返りたくなるのでした。

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