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境界を越えてゆく

今日は『匠の流儀 - 経済と技能のあいだ』(編著:松岡正剛)より「第2章 日本の経済文化の本来と将来3. 編集的日本像」から「何をもって、何を見るのか」を読みました。

日本人で初めてノーベル賞(物理学賞)を受賞した湯川秀樹さんについて語られ、湯川さんが自身の研究に欠けている点を補うきっかけを、東洋思想や哲学など他の領域に求めていたことが示されています。湯川さんは「越境」の人だったのですね。

それでは一部を引用します。

 その一つのエピソードとして、湯川さんは仏教にたいへん関心をもたれて、「仏教ってなんやろ」ということをずっと考えていた。何か、自分の物理学や数学には欠けているものがある、自分には足りないものがある、そのヒントが仏教にあるんじゃないかと考えていたんですね。
 私は湯川さんからこんな話をうかがったことがあります。(中略)けれどももう一つ、どうも日本的仏教というイメージではつかめなかったものとして、密教をあげられたんですね。密教は日本の仏教の中では非常に特別なもので、簡単に言えば、明治時代になってから、ずっと無視されていました。でも湯川さんは、ひょっとしたらこの密教こそが非常に独特な日本人の考えをあらわしているのではないかと考えて、空海に注目していくわけです。
 他方、理論物理学というものは、当然ロジックが重要なのですが、どうもヨーロッパのロジック、ロゴスだけでは足りないものを湯川さんは感じておられたようです。そういう中で、湯川さんはまたもう一人の日本人の思想家にめぐり合った。それは三浦梅園です。江戸時代中期以降に、条理学というものをつくった人でして、湯川さんはこの三浦梅園の哲学にも非常に注目をされた。
 このように湯川さんは、自分のめざす物理学の方法の不足を日本の思想からも見出す、仏教からも見出す、日本の論理学からも見出す、ということをされていたわけです。

「いま何かの物事に取り組んでいるとして、それに行き詰まりを感じているとしたら、何を考え、どのように行動するだろう?」

目標・目的を再設定する。現状を確認する。目標と現状の差異を「問題」として捉え、問題を構造化し、仮説をたてて検証(行動)する。わからない点や欠けている情報を洗い出して調査する。目的地と現在地の間にある地図の空白地帯をうめながら、目的地と現在地との距離を縮めてゆく。

そのようなところでしょうか。

なかでも起点となる「目標・目的の再設定」は、それまで深めてきた考えを一度すべて捨て去ることが必要となったり、論理の積み上げだけでは難しい部分があるかもしれません。

ヒントになるのは「直感」「発想の飛躍」「新しい視点の獲得」「借りる」など。自分が「知っている」世界の境界を越えてゆくこと、つまり「認知の限界を越える」ことが必要となるように思います。

今回の湯川秀樹さんのエピソードは、物理学と東洋思想(仏教)という一見すると遠く離れて見えるようなことを結びつけてゆくこと、いま自分が身を置く領域に固執しないことの重要性を説いているように思いました。

「何かが足りない」という感覚に注目したいです。その何かは分からないけれど何かが足りない。その感覚は「自分が過去の経験」に根ざしているものかもしれないし、そうではないかもしれません。

後者の場合、新しい何かに触れて、自分(複雑に絡まりあったモノの見方)を解いてゆく。未知に触れるときには知識を吸収するのではなくて、自分をほどいてゆくような触れ方をしたいな、と。

「好き嫌いがない」というのは、それだけでとても素敵だと思うのです。

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